導きの手



「やだやだ、絶対やだ!」

「しかし、もう三日も入ってないんですよ」

「いやなものはいやなの!」

ダアトに響く幼い声。それを発している一人の少年。その前ではすっかり困っている夫婦。

「…なにがあったの。パパ、ママ」
「あら、アニスちゃん」
「おお、丁度いいところに」

呆れたような声を出す愛娘に、笑って振り返る両親。そこでようやく気付いたように、フローリアンがアニスを見て叫ぶ。

「あっ、アニス助けて! オリバーとパメラがいじめるんだよ!」
「いじめる? パパ、何したの?」

怪訝そうにアニスは首をかしげる。口を開きかけたオリバーより先に、パメラが言った。

「いじめてなんかいないわ、アニスちゃん。ただ、フローリアン様がお風呂に入ってくれないのよ」

ちょうどフローリアンに伸ばしかけていた手を、さっとアニスが引っ込める。

「ええっ!! やだフローリアン、ばっちぃ!!」
「…『ばっちぃ』って、なに?」

そう言ったフローリアンは、意味はわからないものの、手を引っ込められたことがショックだったようで、気落ちした表情をしていた。それにも関わらず、アニスがフローリアンをきっと見る。

「なんでお風呂入らないの!?」
「…だって、目に泡が入るんだもん…」

思い出したかのように目元に手をやるフローリアン。眉間に寄せたしわが、どれだけ痛かったのかということを示していた。

「だからって、そのままじゃ不潔でしょ。ママ、どれくらい入ってないの」
「かれこれ、三日くらいかしら」
「そんなに!? なんで無理矢理にでも入れないの!」
「だって、フローリアン様が暴れるから…」

困ったように頬に手をやる母の姿は見慣れたもので。そう、よく知っている。無理強いをしないのだ、この人は。そこがパメラの困ったところである。

「…まったく、しょうがないなあ…」

頭に手をやって、呆れたようにアニスは言う。そしてくるっとフローリアンの方を振り返ると、ぱっと表情を一転させた。にっこりと笑んだその顔は、さっき睨んだのが嘘のようだ。

「フローリアン、ちょっとおでかけしようか」
「おでかけ? どこどこ?」

フローリアンの顔がぱっと明るくなる。その容姿ゆえ、自由に教会を出られる立場ではないフローリアン。仕方のないこととはいえ、彼の中身は赤ん坊に近いのだ。閉じ込められて、どこにも行けないのは退屈だったに違いない。

「アルビオールで連れてってあげるよ。パパ、ママ、いいよね?」
「ええ、少しくらいなら構わないと思うけど…」

よし、と軽く頷くと、アニスはきゅっとフローリアンの手をとった。

「ねえ、アニス。どこいくの?」
「内緒内緒♪ でも、すっごく楽しいところだよ!」










「うわ〜〜ん!! アニスの嘘つき〜〜!!」
「こら、フローリアン! 待ちなさい!」

湯気で曇った室内に、子供特有の甲高い声が反響する。普段と違い、髪が撫で付けられたようになっているガイが苦笑した。

「なるほど、そういうわけでここに来たのか」
「ええ、突然スパに行くと言い出したので、何事かと思いましたが」

そう言って、笑って見せるはバスローブのリゾートキング。何事か、とは言ったものの、彼の事だ、アニスの様子から気付いていたに違いない。

「いや〜それにしても、スパとはアニスも考えましたね」
「ああ、男女が一緒に入っても問題ないからな」
「おや? ガイの場合、問題あるんじゃないですか?」
「…確かに、俺は女性恐怖症だけど…」
「いえいえ、『ガイに』ですよ。何しろ、"スケベ大魔王"ですからね」
「あれはジェイドとルークのせいだろうが! 俺に非はない!」
「おや〜今度は責任転嫁ですか。見苦しいにも程がありますね」

からかわれる青年とからかう中年のやりとりをよそに、当の子供たちは相変わらず走り回っている。

「もう、フローリアン! いいかげん止まりなさい!」
「やだやだ! ぜ〜ったい、やだ!」

フローリアンはわめくと、さっと走るスピードを上げた。どうやら、彼の体力は劣化していないようである。

「ちょっと、そんな走ったらあぶな―」

そこまで言ったところで、ずべっとアニスの方がすっ転んだ。

「―アニス!」

フローリアンがはっとして振り返り、慌てて駆け寄る。

「アニス、だいじょうぶ?」

手を差し伸べて、アニスを助け起こす。その手を取って、アニスがにやりとほくそ笑む。

「―つーかまえた」
「え?…へっ!?」

がしりと手首を掴まれ、フローリアンはようやく事態を理解した。

「うわあ〜〜はなしてはなして〜〜!!」
「ここまで来て逃がすかっちゅーの!」
「うええ〜〜アニスのひきょうもの〜〜!!」
「転んだのは本当だも〜ん。痛かったんだから」

そう言ってアニスは、泣き喚くフローリアンをずるずると洗面台に引きずっていく。その膝は確かに痛々しげに赤くなっていた。

「はい、ここに座って」

ぽん、と小さな台のような椅子にフローリアンを座らせる。手早く桶にお湯を入れると、ざばっと頭からフローリアンにかけた。

「ぅひゃあっ!? 目に何か入った!」
「ただのお湯だよ。ぱちぱちしてごらん、大丈夫だから。こら、こすっちゃダメ!」

アニスが目元へ伸ばしたフローリアンの手を慌てて止める。

「やだやだ! やっぱりやだよ!」
「男の子でしょ! 今更逃げない!」

ぎゃんぎゃん喚くフローリアンの手を目元から離し、シャンプーへと手を伸ばす。その途端、フローリアンが、身を引くのがわかった。

「そんなに心配しないの。目をぎゅっとつむってなさい。そしたら、すぐに済むから」
「…ほんと?」
「ホントホント。皆そうして洗ってるの」

私もだよ、とアニスが微笑むと、フローリアンは一瞬だけ不安そうにアニスを見上げ、ぎゅっと目をつぶった。アニスは、そのしっとりと濡れた緑の髪にシャンプーを垂らす。普段はふんわりと柔らかくふくらんだ髪は細くて、指を絡めるとじゃれるように手にまとわりついてきた。なんだか可笑しくなりながら、アニスが洗っていると、ふとフローリアンが声を上げた。

「あっ!」
「え、何、どしたの?」
「痛くない!」

言われて、フローリアンの顔を覗き込む。見ると、丁度まぶたの上を泡が通っていた。感覚でわかったのだろう。

「すごいね、アニスの言うとおりだ」

口元をほころばせて言うフローリアンに、アニスは少し頬染めた。あどけないその表情に、なんだか無性に気恥ずかしくなる。と、フローリアンの頭がやや下がったかと思うと、彼が悲鳴を上げた。

「ぅえっ! ごほ…っ」
「え、今度は何!?」

アニスが頭から手を離し、フローリアンの前にしゃがみこむ。垂れた泡が口元に達していた。

「…に、苦いよぉ…」
「…んもー、何やってんの。ほら、口ゆすいで」

呆れて、アニスが蛇口の栓を捻る。水の流れる音を聞いて、フローリアンはわたわたと手を伸ばした。しょーがないなあ、とため息をついて、アニスがその手を蛇口まで導いてやる。ばちゃばちゃと口をゆすぐと、フローリアンはふうと息をついた。

「まったく、あんな風に口開けちゃダメだよ。あれは食べていいもんじゃないんだから」
「う〜やっぱりお風呂は嫌いだよ〜…」

眉間にしわを寄せるフローリアンに呆れながら、アニスはもう一度頭を洗い出す。アニスが黙ったせいか、フローリアンは大人しくされるがままになっていた。わめく素振りも見せない。

「はい、お湯かけるよー」

最初と同じように、桶にたっぷり入ったお湯を頭からかける。泡が流れ、周りの床が白に包まれた。

「ほい、終わったよ」
「ん…もう、目開けていいの?」

恐る恐る、フローリアンがまぶたを上げる。アニスがタオルを差し出す。

「これでとりあえず顔を拭いときなよ。今度は体を洗ってあげるから」
「うん、ありがと。…でも、いいの? アニス」
「何が?」
「服に泡がついちゃうよ」

フローリアンがつい、とアニスの水着を指差す。アニスは一瞬きょとんとして、ぷっと吹き出す。

「やだな〜、フローリアン! これはみ・ず・ぎ! 水に濡れても大丈夫なんだよ」
「そうだったの? じゃあ、僕のも?」
「うん、フローリアンのはレンタルだけどね」

シンプルなデザインの海パンは、スパの会員証を持っているものだけがレンタルできる。女性用はティアが着用しているのを見たことがあったが、男性用のものはアニスも今日初めて見た。

「れんたる? アニスのは違うの?」
「アニスちゃんのは、皇帝陛下によるオーダーメイドだもん。セレブな雰囲気でぴったりでしょ☆」

ぴっと人差し指を立て、ウインクをしてみせるアニス。そのアニスに、フローリアンがにっこり笑って言った。

「うん、すっごくかわいいよ」

ぴた、とアニスの動きが止まる。同時にかあ、と頬が朱に染まった。

「? アニス、どしたの? 顔、真っ赤だよ」
「え、そ、そんなことないよ!」

ほら、そんなことより体洗わないと。そう言って、アニスはぐるりとフローリアンの向きを反転させた。頬がまだ熱い。

―まったく、お子様だと思ってたのに…

「…なんか…むかつくっ!」
「いたっ! 痛いよ、アニス!」

思いっきり背中をがしがしとタオルでこすられ、フローリアンが悲鳴を上げる。





あの無垢な瞳で人を褒める様に、誰かを重ねたわけじゃない。

―けれども、どきりとしたのは本当で。



恋とするには小さすぎて、愛というにはおぼろげで。

でも、目の前の"彼"を大切にしたいとおもう気持ちは嘘じゃなくて。



幸せにしてあげたい、ではなく、

幸せになってほしい、という思いで。



「フローリアン、次からはちゃんと自分でできるようになってね」
「ええ〜、できるかなあ?」

不安げに呟くフローリアンの肩に、ぽんとアニスが手を置く。

「できるよ。時間はたっぷりあるんだから」





何人分もの命が、あなたの中にはあるのだから。





−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2006/04/25)

初フロアニー…フロアニ? ってか、むしろ、フローリアン+アニス?
フローリアンの口調が難しかっったです。子供っぽい口調を書くことがあまりないので。
なんか…話の流れが最初と違う。どういう話にしようと思ってたんだっけ? 確か、
フローリアン、風呂を嫌がる↓
アニス、フローリアンを騙してスパに連れてく↓
フローリアンの頭をアニスが洗う↓
アニス、フローリアンに水着を褒められてドッキンコ☆
…な話だったはずなのに(最後おかしい)。ってか、三番目から四番目の流れがおかしい。
要するに風呂ネタが書きたかったんですよね。決して、『"フロ"ーリアン』と『風呂』をかけたわけでは(痛)
フローリアンの名前を打つのがめんどくさくてなかなか進みませんでした。今もめんどくさいです。
もう、『フロ』で辞書登録しちゃうか。ああでも、『風呂』が出しにくくなるか。
イオン死亡後、エンディング前の時期を考えてますが、やっぱりフロアニは母子なイメージが強いです。
お母さんアニスとお子様フローリアンのコンビっていうか…まあ、三年後あたりだと変わるかもしれませんが。
最後はやっぱり、アニスは重ねてしまったわけじゃない、ということをあえて主張したくて。
好きだとか云々よりも、幸せになれるように見守ってあげたいという気持ちが今は強いと思うのですよ。



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