悲しく淋しく、そして慰めはなく
それは野に咲く薊のように
静かに、廊下を歩く音がする。足音はゆっくりとしていてどこか年齢が表れているようだった。つい先程、部屋に使いがやってきて『彼女』が着いたことを知らせた。
「―まさか、この歳で正室をとることになろうとはな」
呟いて、己が手を見やる。皺の走った乾いた手のひらは、今まで生きてきた痕を物語っていた。齢四十五、という年齢は確かにその身に刻まれていた。相手は、四十四だと聞いた。あちらも嫁ぐような歳ではない。それでも、秀吉は差し出した。
『男やもめで、寂しかろう』
自分を従えよう、というあの厭らしい眼で。その様は、どこか必死に見えた。そんなことを思いながら、あえて頷いた自分も、厭らしい、と思った。そして、今、思う。果たして、そこに『彼女』の意思はあったのだろうか。
関白・豊臣秀吉の妹、
―朝日姫の。
襖を開けると、すぐに中の女性はこちらを見た。睨むような瞳は、怯えてるようには見えなかった。家康はすう、と笑ってみせる。
「そう固くならなくても、朝日殿」
ゆっくりと床に腰を下ろす。相手に警戒心を抱かせないように、気遣った。正面に座り、改めて朝日姫の顔をまっすぐに見る。
齢四十四、と聞いていた。年齢どおり、というか若さも老いも感じさせないような顔だった。麗しい、美しい、というような顔でもない。かといって、特徴がないでもない。ただ、眼がやけに強い印象を受ける。
視線が合わさり、朝日姫が再び睨むようにこちらを見る。
「緩めるつもりは毛頭ございません。私はあなたの妻になどなる気はないのですから」
一瞬、きょとんと目を丸くする。
「それはどういうことですかな? 私はあなたがこちらに嫁いでくると聞いているのですが」
言葉を選びながらも、頭の中で考える。これは秀吉の画策の一つかもしれない。今、この瞬間も気は抜けない。
「それは兄が言ったことでしょう。私は一度もそのようなことは申しておりません」
きっぱりと言う朝日姫を前に、ああ、と納得した。秀吉の妹、ということは彼女も農民上がり。政略結婚の意味を理解はしていないのだ。くく、と少しおかしくなる。
「確かに、それはその通りですが…これも何かの縁、夫婦になってみるのもよいではないですか」
こちらとて、好きで迎えたわけではない。心の中で呟いて、にいと笑う。
「何が、可笑しいのですか」
知らずに笑みがこぼれていたらしい。慌てて手を振る。
「いえいえ、何でもございません」
「やめて頂けますか、その顔」
え?と驚いて、彼女を見る。その眼は相変わらず、こちらを睨んでいる。
「へらへらと…腹の底を見せずに、何を考えておられるのですか」
今度は、本当に驚いた。初めて会った人間に、そんなことを言われるとは。初めて会った人間に―見抜かれるとは。
「兄もそうです。表では笑って、裏では互いの足の引っ張り合い…虫唾が走る」
一瞬、聞き違えたかと思った。たとえ、関白の妹であろうと、目の前でそんなことを言われるとは。
「もう一度言います。私はあなたの妻になどなる気はありません。けして」
立ち上がり、去ろうとする彼女に家康は慌てて手を伸ばした。
「待っ―」
「触れないで下さい」
朝日姫の体が一歩下がる。けがらわしい、とでもいうかのように。
「あなたに恨みはございませんが、兄の思惑どおりにいくのは死んでも御免です。―それに、私の夫はあのひと一人ですから」
―あのひと?
疑問に思いながら、それでもなお手を伸ばす。
「朝日殿―」
「その名で呼ばないで下さい」
今度は叫ぶように言う。確かな憎しみが込められた眼が、こちらを睨む。
「私の名は朝日などではありません、“あさ”です」
近づいて、なお睨んだままの表情で言う。
「けれども、あなたがその名で私を呼ぶことはありません。―いいえ、許しません」
凛とした瞳は、怒りすらもあった。
「私の名を口にしていいのは、甚兵衛さまのみです」
言い捨てるように言うと、彼女は再び背を向けた。その背に向かって、家康は呟いた。
「…齢四十四にして、操を立てるか」
小さな声。けれども、それは確かに届いて。
「―それを立てるのに、歳が関係ありますか」
声は変わらず。強く、潔いままに。
ぱたん、と襖が閉じられ、家康は一人部屋に残された。どこへいくのだろう、とうっすら考えてみた。きっと、彼女はどこでもよかったのでろう。自分がいないところなら、どこだってよかったのだろう。
思い返す、あの瞳。
人質同然にして、ここに嫁いできたというのに。
強く、凛々しく、逞しく、
そして、何より
―美しかった
確かな怒りと憎しみに包まれて、ひどく強く輝いた瞳。
「はじめて、だなあ…」
いとおしい、と思った。
朝の光が注ぐ庭に、家康は立っていた。彼女が訪れてから、早三日が経っていた。わかったことは、彼女の昔。
彼女は尾張の地侍・副田甚兵衛の元へ嫁いでいたそうだ。
夫婦仲はよく、甚兵衛も彼女以外に妻をとることはなかった。
―絵に描いたような幸せな夫婦、だった。
「それも、秀吉が別れさせるまでのこと、か…」
徳川家康を傘下にしようという秀吉の画策。
打つ手がなくなってきた秀吉は、ついに『政略結婚』という手をとった。
幸いなことに、家康の正室は随分前に亡くなっていた。
けれども、身内に独身の娘はいない。
―そこで、朝日姫を離縁させたのだ。
仲睦まじいと評判の夫婦を、二十年も共に過ごした夫婦を。
血の繋がった実の妹と、義理の弟にも当たるその夫を。
―引き裂いたのだ。
副田甚兵衛には五万石を与えると。けれども、彼は断った。
妻を売ったようなものだ、と恥じ入るように隠居したそうだ。
そこには、どれだけの葛藤があっただろう。
たとえ、どんなに愛していようが、関白に逆らえなかったに違いない。
―たとえ、どんなに互いを愛していようが。
「かなしいな」
それを思えば、彼女が自分をひどく睨んでいたのも納得がいく。ある意味では、自分の所為なのだ。もしも家康がいなかったら、彼女は今も健やかに、愛する夫と暮らしていただろう。恨んでも、当然である。けれども、彼女は恨みはないと言った。それだけは、はっきりと。唯一の救いのようにも思えた。
庭を、歩く。じゃり、という音がして小石が踏みしめられる。ふと、庭の隅を見やると、塀のすぐそばに花が咲いていた。薄紫色のその花は、小さいが確かに息づいていた。すっと手を伸ばし、掴み、摘み取った。途端、鋭い痛みが襲う。見ると、乾いた指先に棘が刺さり、血が滴っていた。
「殿、いかがなさいました!?」
慌てて庭師が駆け寄る。手から落ちる血を見て、なお一層焦ったような顔になる。
「大丈夫でございますか!? ああ、すぐに手当を…」
「平気だ。気にするな」
流れる血を見る。花の茎が、血に染まる。花を見て、庭師が言った。
「ああ、こんなところに薊が生えていたのですか。申し訳ございません。すぐにでも刈り取りますから」
「薊?」
「この花の名ですよ。ご存知ありませんか?」
いいや、と首を横に振って、手の中の花を見る。薄紫色の花は棘だらけでとても痛々しかった。血を浴びて、それは何かを拒んでいるかのように見えた。
「…刈り取らなくともよい」
「え?」
首をかしげる庭師に、家康は言った。
「それより、この花が、たくさん咲いているところを教えてはくれまいか」
彼女をその花に重ねてしまった自分は、少し変わっていたかもしれない。けれども、それは必然のような気がしたのだ。
城の庭とも呼べないような場所に、その花は咲いていた。黄昏を思わせるような薄紫色の花は、縁や茎、葉にすら棘がついていた。まるで、全身で触れられることを拒否するようなその姿は、彼女の心を思わせた。
それからは毎朝、薊の花を摘んでは彼女の部屋に届けた。彼女と顔をあわせるようなことはなく、時折遠目に見つめることしかなかった。薊の花に、彼女が気づいているかどうか、そんなことはもはやどうでもよかった。ただ、捧げたかった。薊を摘むたびに、彼女の姿を思い返した。いとおしくて、しょうがなかった。何もいらなかった。ただ、愛していた。
二年の歳月が経ち、彼女は母の元へ帰ることになった。母親の病が悪化したことを知り、見舞いに行ったのだ。だが、家康は、もう彼女は戻ってこないだろう、と思った。そこに理由などなく、ただ思った。不思議と、悲しくはなかった。むしろ、それがいいと思った。彼女は自分を愛してなどいないのだから。夫と思ってはいないのだから。彼女が、“あさ”でいられる場所に帰ることができるなら、それでよかった。
最後の瞬間すら、言葉を交わすことはしなかった。遠目に彼女を載せた駕籠を見つめて、心の中で別れの言葉を呟いた。ここで何か口にしたら、この二年の歳月が散ってしまいそうな気がした。そんな気がした。
襖を開いて、足を踏み出す。彼女の部屋に入るのは、実に二年ぶりのことだった。あの日から、ずっと襖の前で立ち止まり、薊の花を置いた。文も何もつけず、ただ薊だけを届け続けた。胸に溢れる想いを、薊に託して。
どうして彼女に惹かれたのか、今ではその理由がわかるような気がした。彼女は、自分の憧れだったのだ。こうありたい、と思うかたちだったのだ。
自分は秀吉の敵である。それは自他ともに認める事実だ。だが、それを口にしたことはない。それだけではなく、他のことにおいても、自分は誰かに本音を口にしたことなど、ないのではなかろうか。
それはこの戦国の時代において、至極当たり前のことだと思ってきた。武士として、大名として。だが、それは本当に当たり前なのだろうか。誰にも本音を口にしたことが、一度も無いというものは。
けれども、きっと彼女は口にするのだろう。たとえ、そのきっかけが、怒りであろうが、憎しみであろうが、彼女は確かな本音を口にするのだろう。私であろうが、秀吉であろうが。
そこに立場などは関係なく、ただ思いを言葉にするのだろう。そんな生き方は知らなかった。そんな風に生きてはこなかった。そんな風に、生きようとしたことは、なかった。
そんな風に、生きてみたかった。
あこがれだった。いとおしかった。うらやましかった。
夫になれなくてよかった。前夫を忘れないあのひとがすきだった。
抗うことを忘れないあのひとがすきだった。諦めることを許さないあのひとがすきだった。
ただの“ひと”として、あのひとと言葉を交わせてよかった。
―あいしていた。
ふと、書机に目をやると、一通の文が置いてあった。誰宛だろう、出し損ねたものだろうか。と、手に取ってみる。
表に書かれた名前は、自分のものだった。
『―家康様
本日を以て、私はこの城を去ります。
二年という短い時間でしたが、お世話になりました。
…初めて会ったとき、正直驚きました。
あのような態度をとったにも関わらず、
あなたはそのまま私をこの城に置いて下さったから。
実を言うと、追い出されても構わないつもりで
あのような無作法なことを口にしました。
けれども、あなたは私を追い出しませんでした。
それどころか、私の我儘な言葉のままにして下さいました。
あなたは、私に触れはしなかった。
あなたは、私の名を呼びはしなかった。
―あなたは、私を妻にしなかった。
あんな風に、扱ってもらえるとは思いませんでした。
私の言うことなど何一つ聞き入れてはくれないかと。
あなたを、誤解していました。
恨みや憎しみに近い気持ちを抱いて見たあなたは、
兄さまにそっくりの笑い方をしたから。
ああ、この人も同じなのだと。
私や他の誰かを犠牲にしても、後悔しない方なのだと。
―そう思っていました。
けれども、あなたは私の言葉を守って下さった。
きちんと、耳を通して、心に留めて下さった。
…嬉しかったです。
そして、何よりあなたの思いやりが。
毎朝、襖を開けると、朝日と共に飛び込んでくるもの。
―薄紫色の、薊の花。
初めて置いてあったときは、何のことだかよくわかりませんでした。
けれども、あなたの乾いた手に残る傷を見て、
そのわけが、ようやくわかりました。
―ああ、このひとはやさしいのだと。
幾度も自分の手や指先を傷つけて、
それでもなお私に毎朝届けて下さった。
あなたの思いやりが、薊から伝わってくるようで
ひどく暖かく、やさしいものがありました。
―嬉しかった
もう誰も信じられないと思ったけれど、
もう少しだけ信じられる人ができました。
あなたです。
私はここを去っていってしまうけれど、
あなたを最後まで夫と思うことはできなかったけれど、
けれども、
あなたは私にとって、かけがえのないひとりです。
ありがとう。
ここで過ごした二年は、決して無駄ではありませんでした。
―さようなら。』
最後につづられた文字が、うっすらと潤んで見える。
「―“あさ”より」
潤んでいるのは涙のせいなのだと、紙に落ちた雫を見て、初めて気がついた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2005/07/16)
夫婦祭投稿作品一作目。徳川家康×豊臣氏(朝日姫)。以下、投稿時コメント。
徳川家康と朝日姫。どちらかというと、家康の片想いのイメージで書きました。朝日姫は秀吉によって無理矢理愛する夫と離縁させられた、というので何だか秀吉が悪役っぽい印象を受けてしまいます。というか、この話を聞いてからというもの、秀吉に対していいイメージが抱けません。秀吉好きさんに失礼ですが。でも、嫌いじゃないです秀吉。
朝日姫は『旭姫』とも書くらしいです。本名が『あさ』という説があって、この作品ではその説をとっています。前夫の副田甚兵衛は、佐治日向守とも与左衛門とも言われています。一説では、副田甚兵衛の前にも一人農民の夫がいて、秀吉によって百姓から武士に出世し、その変化によって自殺したとも。副田甚兵衛に側室がいない、っていうのはちょっと作っちゃいましたが、そういう話は出ていなかったので。でも、本当に仲睦まじい夫婦だったそうです。副田甚兵衛のその後は、自殺したとも言われています。この作品では隠居ですが。
朝日姫はこの二年後に亡くなりました。小田原出陣の大事な時期だったため、喪も満足に行われなかったそうです。朝日姫は最後の最後まで秀吉を恨んでいそうだなあ、と思います。たとえ、血の繋がった実の兄であろうとも。だから、同じように秀吉の敵である家康と少しだけ心が通じ合うといいなあ、と。家康は農民の娘と話したことなどないから、余計にその考えに惹かれて。
薊の花の名前の由来は、『アザム』という言葉にあると言われています。「アザム」には「驚きあきれる」とか「興ざめする」の意味があり、花が美しいので手折ろうとするとトゲにさされて痛いので、「驚きあきれ、興ざめする」ということからこの名前がついたらしいです。この由来を聞いて、思わず朝日姫を思い浮かべました。ちなみに、薊の花言葉は『独立』です。
薊を摘んでは朝日姫を想い、薊を受け取っては家康を想う。朝日姫にとって、家康は『夫』ではなかったけど、誰かにはかえられないひとりになったと思うのです。
徳川家康<天文11年12月26日(1543年1月31日)〜元和2年4月17日(1616年6月1日)>
…幼名は竹千代。松平元信。松平元康。父は松平広忠、母は水野忠政の娘・於大の方。五大老。江戸幕府の初代将軍。
豊臣氏<天文12年(1543年)〜天正18年1月14日(1590年2月18日)>
…朝日姫。駿河御前。南明院殿。末津。正室。後妻。築阿弥、大政所の娘。秀吉の異父妹。佐治日向守が自害、副田甚兵衛より離縁し輿入。
戦国時代の手紙の書き方なんざわかりませんよ。もういいです、朝日姫元農民だし。
背景は薊の花。『薊』は『アザム』ではなく、『アザミ』ですよー。一応、書いておきます。
花言葉の『独立』は『独りで立つ』といった意味で受け取ってくださると嬉しいです。
四十五歳と四十四歳のいう熟年夫婦。作品中にそれっぽさが出てるかどうかは微妙ですが;
あくまで家康の片想い。けれども、決してその気持ちは朝日姫にとっても迷惑じゃなかった、はず。
