明ける夜、沈む月

 ― 黎明




「御台さま…!」
呻くような声に振り向くと、そこには血まみれの兵士が立っていた。
「秀満殿…! いかがなさったのです!」
慌てて駆け寄る。重い鎧帷子がずしりともたれかかってきた。
「御台さま…落ち着いて、聞いて下さい…」
「どうしたのです、何が、何があったのです!」
母の悲鳴を聞いて、娘の倫子が部屋に飛び込んできた。
「お母様、一体どうなさって…ああ!」
ほとんど転ぶようにして、倫子も秀満に駆け寄る。夫の姿に、倫子は愕然とした。
「一体、何が…秀満様! 秀満様!」
「お倫、静かになさい! 今、それを聞こうとしていたところだったのです」
熙子が制して、倫子は口を押さえた。息も絶え絶えな様子の秀満が、ゆっくりと口を開く。
「御台さま、お倫…落ち着いて…ください…」
「秀満殿、何があったのです!」
支えるようにして、熙子が叫ぶ。一瞬押し黙って、秀満は叫ぶように言った。

「―光秀様が、討ち取られました…!」

ほんの少しの間、空気が静まり返った。瞬きのような沈黙のあと、お倫が叫ぶ。
「そんな…嘘でしょう…! お父様が…」
「残念ながら、本当のことです…小栗栖にて、農民に不意をつかれて…!」
秀満の言葉に、熙子は目を見開いた。秀満は、続ける。
「殿は、亡くなる前に…御台さまに、伝言を、と…それで、私はここまで駆けて参ったのです…」
切れ切れに呟く秀満に、熙子が言った。
「…あのひとは…光秀様は、何と…?」
その小さな声は、あまりにかすれていた。けれども、秀満は苦しげに俯いて。

「―生きろ、と」

ぐらり、と熙子は頭が揺れたような気がした。―あれほど、あれほど言ったのに。
「決して私を追うようなことはするな、と。坂本を捨て、お倫を連れて…!」
あんなに、言ったのに。
「どこへでもいい、どんな方法であろうと…」
ああ、どうして、そんなに。


「―生きて、生き延びてくれ、と」


―おろかなのですか。

言葉は口をついて出てくることはなかった。代わりに、別の言葉が飛び出した。
「…秀満」
「はい」
「城に火をかけなさい」
「………!」
驚いて、秀満が顔を上げる。しかし、それもまた一瞬のことで、すぐに頭を下げる。
「承知しました。御台さまは脱出の準備を」
「脱出? 何の話です?」
「…え?」
再び、顔を上げる。熙子の顔を真正面に見据える。
「脱出するのは、あなた含む家臣や女中。私は、この城に残ります」
「何を言っているのですか、御台さま! 殿のお言葉は―」
「ええ、しっかりと聞きました」
熙子は、無表情の声で答えた。
「ならば、どうして…!」
「だから、ですよ」
嘆くように叫ぶ秀満に、熙子は優しく言った。
「あのひとに教えねばならないのです。私があれほど言ったのに、それでもなお、私に生きろと言ったあのひとに。私の命は、あなたの命だということを」

―ごめんなさい。

―私はもう一度だけ、あなたに逆らいます。

「けれども、これは私のわがまま。だから、この城を連れていきます。もちろん、あなたがたは連れて行きやしませんよ」
諭すように言う熙子の言葉に、倫子が立ち上がった。
「いいえ、私もいきます」
「―お倫」
熙子は一瞬驚いたが、すぐに呆れたような顔になった。
「お倫。あなたはまだ若い。そんなお前を連れていくほど、私は愚かではありませんよ」
「私もお父様の子ですもの。この城を連れていくというなら、私も連れていって下さい」
まっすぐに熙子を見た眼は、若さを感じさせなかった。熙子が見る。
「お倫」
「意地でも、ついていきますから」

―ぱんっ

熙子が倫子を叩いた。倫子は一瞬怯んだが、すぐに変わらぬ瞳で熙子を見つめる。
「―お倫」
「決心は、変わりませんから」
倫子の頬を見て、熙子は自分の掌を見た。どちらも赤く染まっている。一瞬だけ眺めて、そっと倫子の頬を撫でた。
「仕様の無い子ね」
「お母様の、娘ですから」
二人して、くすっと笑う。
「ごめんなさい、秀満様」
謝る倫子に、秀満はそっと首を横に振った。
「いいや」
「ついてきて下さいますか?」
「当たり前だろう」
にや、と笑んで倫子の髪を撫でる。嬉しそうに頬染めて、倫子は秀満の手をとった。



「皆、脱出しましたね」
「ええ、あとは私たちだけです」
秀満が頷いて、油の入っていた桶を蹴る。それが合図のように、熙子と倫子は床に座した。秀満が後ろに回る。
「ああ、待って。秀満殿」
「何でございますか」
秀満が刀を置く。熙子は振り向かずに言った。
「私たちの介錯の前に、火をかけてほしいの」
「…承知いたしました」
松明を手に取り、熙子の前にある障子に火をかける。すぐに障子は燃えていき、焔の輪の中に朝焼けが見えた。

ああ、いつかあのひとと、この朝焼けを見たことがあった。


―太陽が琵琶湖に映って、とても綺麗だと笑ったのだ。


「介錯を、お願いします」

返事はなかった。


朝焼けの中で、彼の人が笑っているような気がした。




待宵へ


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2005/07/16)

夫婦祭投稿作品三作目。明智光秀×妻木氏(熙子)。以下、投稿時コメント。

明智光秀と熙子。不運、不幸の文字がついてまわるような二人。普段書いている二人と違って、史実の夫婦を意識して書いてみました。ちょっと『黎明』の方は、秀満と倫子の話っぽいですね。あの二人の夫婦も何気に好きだったりします。熙子はああいうときはしっかりとした奥さん、というイメージで。
謀反への旅立ちとその最期。謀反の決心に関しては、誰よりも最初に熙子に告げているといいなあ、と思って。熙子は光秀と何度も苦難を乗り越えているので、光秀を失うこと以外に恐いことはないと思っているんではないかと。誰よりも自分を愛してくれた夫が、何よりも辛い決断をしようとしているとき、反対なんかしないのではないのでしょうか。光秀が選んだ道なら、光秀が決めた道なら、きっと頷いてそっと背中を押してあげるような人。けれども、きっと光秀が死ぬ道だけは、嫌だと言った人。光秀が死んだならば、どんな言葉を遺されていようが、きっと同じ死を選んだであろう人。賢夫人と名高い彼女、夫に尽くし愛した彼女は、きっとそんな風であったと思うのです。
結局、もう一度坂本に帰ることはなかったけれど、常世で再び巡り合うことはあったはず。そのときは、互いに責めて、そして、涙するのではないかと。

明智光秀<享禄元年(1528年)〜天正10年6月13日(1582年7月2日)>
…幼名は桃丸。十兵衛。源光秀。惟任日向守。斉藤道三の甥、濃姫の従兄。坂本城城主。父・母は諸説有。
妻木氏<享禄七年(1535年)〜天正十年(1582年)または天正四年(1576年)>
…熙子。正室。妻木載熙の娘。細川ガラシャの母。二男三女を産む。二女説も有。


当サイトの定番夫婦。普段のいちゃこらな二人とは違う、通じ合う夫婦を書いたつもりです。
「待宵」の『あなたが触れない私なら、無いのと同じだというのに』という台詞は、
鬼束ちひろの『流星群』の一節・『貴方が触れない私なら無いのと同じだから』から引用させて頂きました。
待宵:〔翌日の十五夜を待つ意から〕陰暦八月一四日の夜。小望月(こもちづき)。[季]秋。訪ねて来るはずの恋人を待っている宵。
黎明:夜が明けて朝になろうとする頃。明け方。よあけ。物事が盛んに始まろうとする時。新しい文化などが起ころうとする時。
これらの意味から、『待宵』はやってくるはずの幸せを待つ夜、『黎明』は新たな旅立ちを示す夜明け、というイメージで。
背景は桔梗。明智家の家紋、二人を示すような花だと思って使わせて頂きました。



小説