白い刃
光秀は降ってくる雪に目もくれず、少し俯きがちに前を見ていた。そして、しばし悩むように立ちすくむと、手にした愛刀を自らの首に押しつけた。光秀は、刃を引こうと腕にぐっと力を込める。その瞬間、耳に聞き慣れた二人の人物の笑い声が響いた。それは、主君であった男と、たった今討ったその小姓の声だった。はっとしたように、光秀は首から刃を離した。目を閉じ、幻の声に語りかける。
「わかっています。ここで私が死んでは…あなた方は許しはしない」
光秀の手から刀が落ちる。刀はゆっくりと、積もり始めた雪の上に横たわった。
「信長様…蘭丸…やっとわかりましたよ。人を信じる意味が…」
光秀は刀に目を落とすこともなく、踵を返すと雪の降らない中へと足を踏み入れた。その途端、どすん、と何かが大きく転ぶ音がした。光秀が何事かと顔を上げると、目の前にある階段の手前で前のめりにうずくまっている者がいた。
「お熙」
光秀が慌てて駆け寄ると、ゆっくりとその人物が頭を上げる。
「痛た…鼻が…」
光秀の妻、熙子である。その小さな顔に浮いたそばかすのようなあばたは、昔、病に苦しみながらも生き残った跡だった。しかし、元々の美しい顔立ちの面影は確かに残されており、大きな瞳はそれをしっかり反映していた。女性には珍しく肩までしかない短い髪は、自らの夫への愛情の証であった。熙子は鼻を押さえて起き上がった。どうやらうずくまっていたのではなく、転んでうつぶせになっていたようだ。光秀が手を差し出して、助け起こす。
「大丈夫ですか、お熙。どうしてここに、あなたが…」
光秀が心配して声をかけたが、言葉が終わらぬ内に熙子が叫んだ。
「光秀様? 良かった、無事なのね!」
感激したように熙子は光秀の手を両手で握り締めた。だがそれとは裏腹に、わけがわからない光秀は困惑の表情になった。
「何のことです、お熙。私は別に何とも―」
光秀が言いかけると、再び熙子が遮るようにして言った。
「だって光秀様、死のうとしていたでしょう?」
熙子が言うと、光秀ははっとした。知らず知らずの内に首に手を当てる。
「―見られてしまいましたか」
光秀の表情が曇る。辛そうに目を伏せた光秀に、熙子が説き伏せるような口調で言った。
「ねえ、光秀様。一体、どうしてあんなことを…」
熙子の言葉に光秀は目を上げ、心配そうに自分を見つめてくる妻を見た。光秀は熙子に握られてない方の手を持ち上げ、その手のひらをじっと見つめた。
「私のこの手は、多くの人を殺めました。私の刀は、多くの人の血を吸いました」
ぽつり、と光秀は語り始めた。
「私は、信長様を殺めました。私は、蘭丸を殺めました」
熙子の目が光秀の手を見つめた。光秀は続ける。
「信長様は、自らの野望のために多くの人を殺めました。蘭丸は、信長様のために多くの人を殺めました。私は、二人を殺めました」
光秀の目が悲しそうに曇った。
「信長様は死ぬとき、私に言いました」
―人を信じる光秀が業を背負う、か
「私は信長様を殺めました。そのとき、私はあの方が背負ってきた業をこの身に受け継いだのです」
光秀が自らの手を胸に押し当てる。
「信長様の背負っていた業はあまりに大きく、そして、重かった」
目を閉じた光秀のまぶたの裏に、主君とその小姓の姿が映し出された。
「その上、私は大切な人を二人も自らの手で殺めました。きっと、この罪は一生消えないでしょう」
まるでそこに傷でも負ったかのように、光秀は胸を強く押さえた。
「業と罪。私は一瞬この重さに耐え切れず、死を選ぼうとしました」
光秀が閉じていた目を開く。目の色の暗さは変わってなかった。
「そのとき、聞こえたのです。二人の、笑い声が」
まだ雪の降り続ける外に光秀はそっと耳を傾けた。
「空耳かもしれませんでした。けれども、そのときわかったのです。私が死んでも、信長様と蘭丸は許しはしない」
顔を伏せ、光秀は胸から手を離した。
「私はただ、自ら背負ったものから逃げていただけだったのです。業と罪。この二つから、逃げていたのです」
光秀は何もない手のひらを見つめる。
「けれども、もう逃げません。私は自らこの道を選んだのですから。信長様の業、蘭丸の罪、この二つを背負う、道を」
強く拳を握り締め、光秀が決意を秘めた口調で言う。
「これから私は、この二つを背負って生きていくのです。一生、そうやって」
光秀が言葉を切ると、しばしの沈黙が訪れた。ふと、手に何か温かいものが落ちた。熙子に握られている方の手だった。光秀が伏せていた顔を上げる。
「…お熙…?」
熙子は、泣いていた。その丸い大きな瞳からぼろぼろと涙が流れ出ていた。熙子の涙が頬を伝い、光秀の手に落ちる。それを見て、光秀は自分の手に落ちたのが熙子の涙だと知った。光秀は驚いて熙子に言う。
「どうしたのです、お熙。何故、泣いて―」
光秀が声をかけると、熙子は顔をぐしゃぐしゃにしながら言った。
「だ、…だって…光秀様が、とても悲しいこと、言うから…」
熙子が途切れ途切れに呟くのを聞いて、光秀は首をかしげた。熙子は涙を拭いながら続ける。
「…まるで…一人で、生きていくみたいなこと…言うんだもの…私、悲しくて…」
熙子の言葉に、光秀がはっとした。止まらない涙を押さえつつ、熙子は言った。
「一人で死のうとするわ…一人で生きて行こうとするわ…もう、私のことも考えてるの!?」
突然、熙子の声が溜め込んでいたものを吐き出すように大きくなった。光秀がぎょっとする。
「…もう、光秀様はどうして私の気持ちがわからないの? 何でそういうことがわからないの!? ほんとに、光秀様はどうして女心ってものがわからないの!? 全く、どうして光秀様はそう鈍感なのよ!! 私のようなあばた顔の女、光秀様以外にお嫁にもらってくれる人はいないのよ? 私のような短い髪の女、光秀様以外にお嫁にもらってくれる人はいないのよ? そこのところ、ちゃんとわかってるの!?」
「…お、お熙…落ち着いて…」
光秀の胸を容赦なく叩く熙子を、光秀は慌ててなだめた。熙子の拳の力はなおも強くなるばかりだった。光秀は胸の痛みに耐えながら、ぎゃんぎゃん泣き喚く熙子の頭を撫でてやった。しばらくの間、熙子は光秀の胸に向かって声にならない声で喚き続けたが、急に拳を止めると声を低くして呟いた。
「…私のような女、光秀様以外に愛してくれる人はいないのよ…?」
かすれた声で言われたその言葉に、光秀ははっとさせられた。熙子の小さな声は、続く。
「ねえ、光秀様。一人で、死んだり、しないで…」
熙子が顔を上げる。
「ねえ、光秀様。一人で、背負う、みたいなこと言わないで…」
熙子が光秀を見つめる。
「私が、いるじゃない」
熙子が呟いた言葉はか細いものだったが、とても暖かかった。光秀をじっと見上げてくる熙子の目はあなたを失いたくない、と語っていた。光秀は急に周りが見えてきたような気がした。自分は何をしようとしていたのだろう。熙子の声が優しく、強く言う。
「私も背負うわ。光秀様一人に背負わせたりなんかしない。あなたと二人で背負って生きていくわ。あなた一人にそんな重さを背負わせない、絶対に」
熙子の目には決心が込められていた。ぎゅう、と光秀の胸元が握り締められる。離れたくない、と熙子の手が言っているようだった。光秀は熙子を見つめる。熙子が、微笑む。
「だって、私たち夫婦でしょう?」
その言葉は、ごく当たり前に口にされる。安易な言葉。けれども、それはひどく優しいものだった。光秀は、まだ目が潤んでいる妻を引き寄せ、強く抱き締めた。
「…ありがとう、お熙」
耳元でそう囁いてやると、熙子は光秀の胸に頬寄せた。少しくすぐったく、暖かかった。光秀は愛おしく思いながら、熙子の短い髪を撫でた。
―私が信じる人が、同じように私を信じてくれる。
光秀は顔を上げ、大きく上を見上げた。
―見えますか? 見てますか? これが、人を信じる意味です…
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2004/07/20)
またもやマイナー路線爆走中です。今回は明智夫婦。
光秀×熙子…光熙って略せばいいのか…? …史実では素敵カップルなのになあ。
っていうか、光秀はもはや公式ではホモ扱いですからね。
タイトルは光秀ムービーED「白い刃」から。内容もED後の話です。あの後、熙子が現れたら…っていう。
実はあのED、私ちょっと納得いかなかったんですね。
どうしてあれで、「人を信じる意味」がわかったのか。
だからその辺を、熙子を出して納得いくように仕上げてみました。
最初のシーン書くのに何度もED見ました…。もう、台詞そらで言えるよ。
あ、熙子は光秀が首斬ろうとしてるのを見て、急いで駆け寄ろうとしたら、着物の裾踏んで転んじゃったんですよー(小説中で説明しろよ)
ちょっと鈍感な旦那と、ちょっと怒りっぽい奥さんでやっていきます。光熙ラブ。
