忘れ物
「まったく、光秀様ったら…よりにもよって、お弁当を忘れるだなんて」
熙子はぶすっと口を尖らせた。両手で風呂敷に包まれた大きな重箱を抱えている。ここは織田信長の居城、安土城の邸内であった。空は綺麗に晴れ上がっていて、出掛けるにはいい陽気が漂っていた。そんな中、熙子はすっかり困ってしまっていた。光秀にお弁当を届けにきたものの、当の光秀がどこにいるのかわからないのだ。歩きながら邸内を見回す。ちらほらと人の姿が見えたが、その中に光秀の姿はなかった。熙子はふうと溜め息をついた。これでは、何のために来たのかわからない。熙子は立ち止まって俯いた。しばし悩んだが、立ち止まっていても始まらない、と熙子は思い直した。熙子はぐっと拳を握ると、再び歩き始めた。ふと、熙子の顔に影がさした。見上げると、すぐそばに背の高い男が立っていた。家臣の一人だろうか、その男は熙子と目が合うとぱっと目を背けた。熙子は慌てて顔を伏せ、足を速めた。すれ違った男が隣の男に何か喋っているのが熙子の耳に届いた。熙子はさらに足を速め、その場から逃げ出すように駆けていった。
熙子は、人がたくさんいる場所が嫌いだった。
熙子の顔を見ると、多くの人が驚いたような顔をする。中には、さっきのように顔を背ける者もいた。
熙子はそれが嫌でならなかった。
熙子は、自分の顔が嫌いだった。
そばかすのように浮いたあばたは熙子の顔だけでなく、熙子の心にも傷をつけた。
熙子はその顔をひどく嫌っていた。
そんな熙子のただ一つの救いは、夫である光秀がその顔を何一つ気にせずに傍に自分を置いてくれることだった。
―熙子は今も昔も、ずっと光秀に救われている。
熙子は足を止めると、荒くなった息遣いを抑えるようにして胸に手を置いた。しばらくたつと、息も整ってきて熙子はふうと溜め息をついた。
私は何を、しているのだろう。
光秀様は、私を好きだと言ってくれたのに。
あの人さえ愛してくれれば、それでいいんじゃなかったの?
「…馬鹿ね、私は」
熙子はそっと呟くと顔を上げた。傍らに置いた弁当を拾うと、再び両手で抱えた。
「あれ、熙子様ではありませんか?」
聞き慣れた声がして、熙子ははっと振り向いた。そこには、信長の小姓・森蘭丸が立っていた。
「も、森様…」
「どうしたのですか? 熙子様がおられるなんて、珍しい」
「え、ええ、ちょっと…光秀様に、お弁当を届けに」
熙子は言いながらも少し後ずさった。熙子は、蘭丸が苦手だった。信長寵愛の美小姓という存在が、どうも好きになれなかったのである。その上、熙子は極度の男嫌いである。怯えたような態度をとってしまっても当然かもしれない。そんな熙子の視線には気付いていないのか、蘭丸が熙子の抱えている重箱に目をやる。
「お弁当って…食事は城で出されるでしょう?」
「ええ、でも今日は鉄砲の訓練だそうで。だから、私がお弁当を」
「ああ、そうなのですか」
蘭丸が納得したようにぽんと手を打った。と、思うと不思議そうに熙子に訊ねた。
「それで、どうしてこんなところにおられるのですか? 光秀様はここにはおりませんよ」
「…じ、実は…光秀様がどこにいるのかわからなくて」
熙子はひどく言い辛そうに呟いた。届けに来ておいて場所がわかってないということを、人に知られるのは少々屈辱であった。そんな熙子とは逆に、蘭丸は少しも気にしてないようだった。
「ああ、光秀様なら鍛錬場にいますよ。今日はあそこで鉄砲の訓練だと秀吉殿が言っておられましたから」
熙子は言われてあ、と思った。そうだ、訓練だと言っていたのだから場所は鍛錬場に決まっている。どうして、もっと早くそんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
「あ、よければ私が案内しましょうか?」
「い、いえ、結構です!」
熙子は両手をぶんぶん振ると、重箱を抱え直して一礼した。
「それでは、失礼します! どうもありがとうございました」
そう言うと、熙子は早々に早足で駆けていった。後に残された蘭丸はぽりぽりと頭をかいた。
「…睨まれてましたね、私。…嫌われてるのでしょうか?」
熙子が鍛錬場に着くと、ぱんぱんと鉄砲の破裂音が聞こえてきた。突然の破裂音に、耳を塞ぎながら熙子は中を覗いた。
「そこ、もっと目標を定めて! ここを戦場と考えて撃つのです!」
光秀が厳しい声で兵士たちに向かって叫んでいる。熙子は少し驚きながらも恐る恐る鍛錬場の中に足を踏み入れた。と、その瞬間、光秀がさっとこちらを振り向いた。熙子がびくりと肩を震わせる。
「あれ、お熙。どうしたのですか、こんなところで」
「…あ、あの…お弁当を…」
熙子がおずおずと重箱を差し出す。光秀があっと驚いた顔をした。
「すみません、忘れてしまったのですね。お熙、わざわざ届けに来てくれたのですか?」
「え、ええ」
「どうも、ありがとうございます」
「そ、そんな…お礼を言われるようなことじゃ…」
にっこりと微笑んで言う光秀に、熙子は顔を真っ赤にして首を横に振った。光秀がそんなことないですよ、と熙子の頭に手を置いた。
「そうだ、お熙も一緒に食べませんか?」
「え、そんな…私は帰るから」
「そんなこと言わずに、せっかく来たのですから」
ね?と笑う光秀に熙子は俯きながら頷いた。熙子が頷くのを見ると、光秀は兵士たちの方を振り返った。
「お昼ですから、休憩にしましょう。各々、好きなように食事をとって下さい」
光秀が言うと、兵士たちは一斉に歓声を上げて鉄砲を投げ出した。光秀が苦笑して振り向くと、熙子もまた同じように苦笑いをしていた。ちらと目が合って、二人はまた笑った。一瞬、心地よい空気が二人の間を流れる。
「おお、熙子さんじゃにゃあか!」
雰囲気をぶち壊すような声が、光秀と熙子の間に割って入ってきた。光秀の同僚・羽柴秀吉であった。
「は、羽柴様…」
「いやー、相変わらず美人の奥さんでうらやましいことだて。光秀殿は三国一の幸せ者だぎゃあ」
「いやいや、それほどでもないですよ」
軽い感じで話しかけてくる秀吉に、さして気にした風もなく光秀が返事をする。熙子は少しおどおどしながら光秀の傍に寄った。そんな熙子に構わず、秀吉は馴れ馴れしく光秀の重箱に目をやった。
「おや、それはもしかして弁当じゃにゃあだでか」
「え、ええ」
「手作り弁当かあ。ええだにゃあきゃあ、わしのところはええとこ、おにぎりだけだに」
至極残念そうに呟く秀吉に、光秀が言った。
「よければ、一緒に食べませんか? 量もたくさんありますし」
(えっ、ちょっと、光秀様!?)
光秀の言葉に熙子は声にならない声を上げた。先も言ったように、熙子は大の男嫌いだ。慌てて光秀の袖を引っ張るが、光秀は少しも気付いていないようだ。
「ほ、ほんとだがね!?」
「ええ、是非どうぞ」
秀吉が嬉しそうに声を上げる。光秀が微笑んで頷いたので、熙子はすっかり顔を青くしてしまっている。
「いやあ、こんな美人さんとめしが食えるたあ、わしは三国一の幸せ者だぎゃあ」
熙子の様子に気付かない秀吉は、嬉しそうに大きく笑った。そんな秀吉を見て、熙子があ、と声を上げる。秀吉がん?と不思議そうな顔をすると、秀吉の耳に怒りに満ちた声が届いた。
「あらあら、そんな美人さんのお弁当があるなら、これは必要なかったかしら」
「ね、ねね…!?」
そこに立っていたのは、秀吉の妻・ねねだった。怒りに眉をひそめ、右手におにぎりが入った包みを持っている。秀吉をちらりと見ると、ふいと背を向けた。
「それじゃあ、これは私が一人で食べようかしら」
「ね、ねね! 待つだぎゃあ! さっきのは言葉のあやだがや!」
「あぁら、そうは思えなかったけど? 三国一の幸せ者って、私初めて聞いたわ」
「そ、それも冗談だぎゃあ! わしの一番はいつもおみゃあさんだがね!」
「あら、さっきは『わしのところはええとこ、おにぎりだけだ』って文句言ってなかったかしら?」
「そ、そこから、聞いとったんだぎゃあか」
つんとそっけない態度をとり続けるねねと、必死に弁解する秀吉の押し問答はしばらく続きそうだった。熙子はつんつん、と光秀の肩をつつくと、袖を引っ張って歩き始めた。
「さ、行きましょう。光秀様」
「え、でも」
「あの二人は放っておけばいいの。さ、お昼お昼」
「は、はあ…」
熙子に引きずられながらずるずると光秀は鍛錬場を出た。最後の秀吉とねねを見たところ、まだしばらくはねねは秀吉を許すつもりはないようだった。
二人が腰を落ち着けたのは、鍛錬場より少し離れた縁側だった。光秀がすごい速さでご飯を口の中へかっこんでいくのを、熙子は呆れたような目で見ていた。光秀がはあ、と息をついて笑った。
「うん、やっぱりお熙の料理は最高ですね!」
笑顔で言う光秀に対して、照れたような顔をして熙子が返した。
「全く、お腹が空いているなら空いているとそう言えばいいのに…」
「いや、申し訳ありません」
光秀が苦笑しながら頭を下げる。早くも光秀は、三段もあった重箱の二段目にとりかかっていた。熙子はちらりとそれを見やると、光秀を見上げた。
「光秀様って、結構やせの大食いよね」
「そうですか?」
「そうよ」
熙子はきっぱり言うと、一段目の重箱の蓋を閉めた。そして、はあと溜め息をつく。
「大体、お弁当が必要だって光秀様が言うから準備したのに、当の光秀様が寝坊して忘れるだなんて」
「はあ、すみません」
熙子がぶつくさ言うと、光秀はまた頭を下げた。そして、弁解するように言う。
「まあ、昨日は遅かったですし」
「ええ、昨日は本当に遅くまで―」
熙子は途中まで言って、ぼっと顔を赤くした。そして、真っ赤な顔のまま、傍らの光秀を拳で思いきり叩いた。
「もう、何てこと思い出させるのよ!! もうちょっと考えて発言してよ!」
「え、わ、私のせいですか!?」
光秀は驚いて、熙子の拳を慌てて両手で受け止めた。熙子はなおも叩き続けて、もう、と文句を言った。
「そうよ、光秀様のせいよ! 昨日もあんなに遅くまで―」
熙子は言って、さらに顔を赤らめた。さらに強い力を込めて光秀をどん、と叩く。
「もう、全部光秀様のせいよ!」
「お熙は本当に、怒りっぽいですねえ」
光秀は叩かれた部分をさすりながら苦笑した。すると、熙子は急に拳を止めて光秀の袖をぎゅっと握った。
「…愛想、つかしちゃった?」
小さな声で呟かれたその言葉に、光秀は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに表情を和らげて熙子の頭をそっと撫でた。
「いえいえ、そういう意味で言ったわけじゃないですよ」
光秀は熙子の頭を優しく撫でながら囁いた。熙子はその手に身を委ねていたが、はっとして光秀の手を払った。
「こ、子供扱いしないで!」
「そうは言っても、お熙は私より七つも年下ですからね」
光秀はそう言って、嬉しそうに熙子の頭をまた撫でた。熙子はまだ文句を言いたげだったが、その手を再び払おうとはしなかった。しばらく撫でられていると、熙子がぽそり、と言った。
「ここへ来る前、家臣の誰かとすれ違ったの」
「へえ、そうだったのですか」
光秀は変わらぬ調子で熙子の頭を撫で続けた。熙子は、その態度が逆に落ち着いた。
「その人が、私の顔を見て目を背けたのよ」
「そんなことがあったのですか」
光秀の声音が少し驚いたように変わった。それを聞き取ると、熙子は光秀を見上げた。
「ねえ、光秀様。私って醜い?」
熙子はまっすぐに光秀を見つめた。そのころっとした大きな瞳を見て、光秀はまっすぐその瞳を見つめ返した。そしてしばしその瞳を眺めると、優しく微笑んだ。
「いいえ、可愛いですよ」
光秀は言うと、また熙子の頭を優しく撫でた。短く切り揃えられた髪は太陽の光を浴びて、ほのかに暖かかった。熙子は光秀を見つめると、ぷいと怒ったような顔になった。
「それ、誉め言葉じゃないわ」
熙子はふんと顔を背けた。光秀はその後ろ姿を見て、ふっと微笑んだ。
お熙。あなたは知らないでしょうね、あなたを見て顔を背ける人の大半があなたの美しさに目がいっているということを。
「…それも何だか、もったいないですね」
「え、何?」
光秀が呟くと、熙子はさっと振り向いた。その顔はもう怒っていなかった。熱しやすく、冷めやすい。それも、熙子らしさの一つだった。
「いえ、何でもないですよ。そうだ、お熙。よければ今日、訓練を見学していきませんか? そうすれば、一緒に帰れますし」
光秀が笑って提案すると、熙子はぱあっと顔を明るくした。本当に感情表現が素直だ、と光秀は心の中で笑った。
「は、はい!」
熙子が大きく頷く。光秀はまた熙子の髪を撫でた。そして、秀吉の言葉を思い出す。
―確かに、私は三国一の幸せ者ですね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2004/08/16)
光熙二つ目。よ、ようやく書けた…。タイトルを本気で「愛妻弁当」にしようか迷った作品です(笑)
このネタを思いついたのは、実は某サイト様で光秀と秀吉が一緒に飯食っているイラストと
一緒に鍛錬しているイラストを見たからです。仲良しそうで惹かれました。
そして、熙子の男嫌い本領発揮。近付かれるだけで嫌だそうです。しかし、光秀は平気。
秀吉の奥さん、ねねさんまで登場。思わぬところで登場しちゃいました。書きやすい人でした♪
今回一番苦労したのが、秀吉の名古屋弁。翻訳サイトで出してみたけれど、いまいち不安です;
私は愛知県に住んでますが、三河圏なのでー。名古屋弁はわからないです。
そして、「ゆうべはおたのしみでしたね」(DQ)発言(笑)この辺が光熙の醍醐味ですvv
政愛や幸くのじゃ出来ないんですよ。政愛はお子様夫婦ですしね。
光秀は熙子の一挙一動が自分を好きだと言ってくれていて、ものすごく嬉しいのです。
自分以外の男性を怯えるのも、自分は特別なのだと言ってくれている気がして嬉しいのです。
いやあ、相思相愛だなあ。うちの光熙は(笑)
背景は桃の花です。桃の花言葉が光熙にぴったりだと思ったので。花言葉は『貴方に心まで奪われた・私は貴方のとりこ』
