あかつきのちぎり




「ほう、この饅頭は旨いな。どこからの献上品だ?」

「明智光秀殿からのものにございます」

近くに座した近習が顔を下げたまま、笑んでみせた。

「ふん、あの金柑頭からか」

信長は少し眉を寄せると、ひょいと食べかけの饅頭を元の器に戻した。

「今度会うたときには、先の饅頭はひどい味がした、とでも言ってやろうか」

「殿は、明智殿いじめがお好きですなあ」

近習は表情を変えず、ふっと息をついた。信長がそれに笑う。

「あやつは糞真面目だからな。あの手の輩は、からかうに限る」

少し困ったように、近習は眉をひそめた。全く、明智殿もかわいそうに。

「あいつをからかわぬやつはおらぬだろう。浮いた話の一つもない」

「そりゃあ、そんな話はございませんでしょう」

笑って、近習が言う。

「何しろ、明智殿にはたいそう美しい妻がおられるとか。浮いた話がないのも、当然のお話」

軽く流すように近習は言ったが、信長はついと眉を上げた。

「何? 妻とな? あやつに妻がおると?」

「はい、ご存知ありませんでしたか?」

近習が不思議そうに顔を上げる。

「それはそれは美しいお方で、なんでも天下一の美女と謳われたこともあるそうですよ」

「ほう…それほどにか」

信長が興味深げに顎に手をやった。

「うぬは、見たのか?」

「いいえ、お噂だけでございます。それに、私でなくとも奥方を見たお方は少ないと思われます」

「どういう意味だ?」

「たいそうな美女でありながら、たいそうな恥ずかしがりでもあるそうで。人前に姿を現すことは、滅多にないらしいですよ」

近習は何気なく言って、少し笑ってみせた。

「明智殿もそんな奥方がいらっしゃる故、一人の側室も持たない、というお話。もしかしたら、明智殿ご自身が奥方を独り占めしたくて、そんなお噂を流しておられるのかもしれませんな」

冗談のように笑う近習を見ながら、信長は思案気に顎に手をやった。


「―ほう、ならば余計に、この眼で拝んでみたいものだな」


悪戯を思いついたばかりの子供の表情で、信長は言った。




「出仕日?」

「はい、月々の朔日と十五日を。信長様がお定めになりました」

茶碗を手に持ちながら、光秀が言った。

「なんでまた、そんなことを…?」

「さあ、私にもそこまでは」

首を横に振る光秀に、ううん、と怪訝そうな顔で熙子が唸る。光秀はその様子を見て、何気ない口調で言った。

「まあ、おそらく家臣の家内での様子について訊ねたりするのではないでしょうか?」

「そう…でも、そんなことでわざわざ出仕日を定めるなんて…変わったお方ね」

熙子は不思議そうに呟いてみせた。それを見て、光秀が慌てて言う。

「お熙、もし行きたくないなら無理して行くこともないのですよ」

「あら、何を言うのよ。私が行かなかったら、光秀様が困るでしょう?」

少し怒ったような目をして、熙子は言った。

「いや、確かにそれはあるかもしれませんが…」

歯切れが悪そうに、光秀は呟いた。

「…お熙は、男が多くいる場所に出向くのは、好きではないでしょう?」

光秀の言葉に、熙子ははっとした。そして、己の前の光秀を見ると、嬉しそうに目を細めた。

「光秀様、私の心配をしてくれてるのね?」

その言葉に、光秀がぱっと頬染める。

「え、あの、それは…!」

慌てふためく夫の姿に、熙子はついくすりと笑ってしまった。その笑顔に、光秀がばつの悪そうな顔をする。

「…当然でしょう、私はあなたの夫なのですよ。あなたを無駄に、傷つけたくはないのです」

光秀は言って、更に顔を赤らめた。熙子は、普段は冷静な夫が顔を赤くする姿を、少し珍しく思った。

「それなら、私だって同じ気持ちよ。光秀様に、無駄な苦労は増やしたくないもの」

光秀が、少し驚いたような顔をする。熙子は勢い込んで言った。

「光秀様、私のことを少し勘違いしているんじゃない? 私、そんなにやわな女じゃないわよ」

「し、しかし…」

まだ迷うような素振りを見せる光秀に、熙子はびしりと言った。

「大丈夫! たかが出仕日、この熙子、武家の妻として見事に果たしてきます!」




「全く、光秀様は心配性なんだから」

呟くように言って、熙子はくるりと頭を巡らした。
ここは織田信長の居城、安土城である。豪華絢爛、というものはこうであろうか、と感じられる城であった。広々としていて、細かな部分にさりげない装飾が彩るように飾られている。けれども、どこか落ち着かないな、と熙子は思った。
照明の感覚のせいか、薄暗い影となる部分が所々にあり、歩いていると、まるで暗闇の道を歩いていくような感覚がするのだ。


どこからか、誰かが襲いかかってくるような

少し間違えば、その影に己も引きずり込まれるような


―ぞくり、と寒気がして熙子はそっと腕をさすった。
来る時間が早すぎただろうか、とふと考える。自分以外に、この城には誰もいないように感じられるのだ。他の家臣の妻が来るまで、表で待っていればよかった。


熙子がそう思ったところで、するり、と暗闇から腕が伸びてきた。


「―えっ!?」


熙子が叫ぶと同時に、もう一本腕が伸びてきて、素早く熙子の口を押さえた。
口と、左の二の腕を押さえられ、熙子は思わず動きを止めた。


(…だ、誰っ…!?)


口をふさがれているせいか、熙子は声を上げることすらできなかった。慌てて振り返ろうとしたが、男の手が口を押さえていて、思うように動くことができない。その上、辺りは薄暗く、相手の顔を見ることは不可能であった。
けれども、男の吐息を首の後ろに感じ、男の顔がどのような位置にあるかはわかることができた。首にかかる息は激しくこそなかったが、見知らぬ者の息が首筋にかかっているという状況は嬉しいものではなかった。
混乱も解けず、膠着状態のまま、熙子が動けずにいると、腕を掴んでいた男の腕がゆるやかに離れた。


と、その手が、熙子の着物の合わせに流れるように滑り込んだ。


(…なっ!?)


突然のことに、一瞬頭が真っ白になる。

だが、それよりも先に、鳥肌が立つような嫌悪感が体を襲った。


(…いやっ…!)


同時に、怒りが湧き上がってくる。

暗闇から人に襲いかかり、卑怯にもその身に手を出す相手に対して。


(…なんということを…っ!)


考えるよりも先に、体が動いていた。

いまやふさがれても、押さえつけられてもいない手を、

素早く、その身につけた着物の帯にはさんであった扇に伸ばす。




「―はなしなさいっ!」




ぱあんっ、と小気味良い音が聞こえ、

相手が、打ちのめされたように離れた。


「…くっ…!?」


額を押さえながら、熙子の手の中を見る。



鮮やかな色で染められた扇が、

守るように熙子の手の内で広げられていた。



「…何者ですか、あなたは」



大きな瞳が、怒りを込めて男を見上げる。

男の姿は、暗がりの中にあり、顔がはっきりとしなかった。


「ほう…それをこのわしに聞くか」


男が、笑う。


一瞬の間を空けて、暗がりから男が姿を現す。



「―あ、あなた、まさか」



熙子の口から、驚愕の声が漏れる。

男が、また笑った。


「―そのまさか、だ」


嘲るように信長は言う。


「うぬが夫、光秀が主、信長よ」


にやり、と信長は笑った。

熙子は、一瞬声が出なかったが、
すぐに思い直して決然とした声で言った。

「―ど、どういうおつもりですか! このような、人を騙すようなことを―」

顔を赤らめて叫ぶ熙子に、信長は変わらぬ調子で言った。

「騙すつもりなど、毛頭ない。ただ、ほんの少し―」

にやり、と口の端が上がる。



「―うぬを、抱いてやろうと思ったまで、よ」



熙子の顔が、更に朱に染まった。

「…抱っ…!?」

驚愕と恥辱の色が一気に熙子の顔に広がる。
赤らめた顔のまま、もう一度熙子は叫んだ。

「―恥ずかしくないのですかっ! 家臣の妻に手を出すなどと!」

熙子の発言に、信長はさして表情を変えたようでもなかった。

「あなたには、帰蝶様という立派な正室もいらっしゃるというのに!」

「それが、何か関係あるのか?」

「―なっ」

大きな瞳が、驚愕の色に満ちる。

「あるに決まっているでしょう! 奥方のいらっしゃる身で…」

「そうか? 果たして、本当にそうか?」

遮るように、信長が言う。

思わず、熙子は口が止まる。

「わしには、すでに何人もの側室がいる…今更、一人増えたところで、どうということもあるまい」

断言するような口調に、熙子は言葉を失くした。

畳みかけるように信長が言う。

「うぬも一緒だ、一人の夫に操を立ててどうする。光秀とて、いつか側室をつくるやもしれぬぞ」

「………!」

熙子が一瞬、口をつぐむ。

信長は勝ち誇ったようにほくそえんだ。


だが、



「―それが、なんだというのです」



熙子は退かなかった。



「たとえ、光秀様が他の誰かを選ぼうと、それは光秀様の御意思です。私に止める権利など、ございません」


「ほう…最初から、覚悟している、ということか」


「違います」


熙子はきっぱりと告げると、はっきりと前を見た。


「私は、醜い女です。このような風貌になりながらも、なお光秀様を想い続けてしまった浅ましい女です。けれども、光秀様はそんな私を受け入れて、愛して下さいました」


熙子のまっすぐな眼が、信長を見る。


「その日から、私の命は光秀様のもの。だからこそ、私は、光秀様を信じ、光秀様に従い、光秀様に尽くしてきました。今更、光秀様が他の誰かを選ぼうと、光秀様の御意思は私の意思。反する理由など、ございません」


大きな瞳に、爛々とした光が宿っている。


「だからこそ、私は己の身を守ります。他の誰にも触れはさせません。それが、光秀様の御意思ですから」


はっきりとした声音で言うと、熙子は扇を構えた。


「あなたが何と言おうと、私はあなたに抱かれはしません。あなたのものには、決してなりません」


鮮やかな色の扇が、その凛とした瞳と重なる。




「―あのひとを、愛しているから」



あのひと以外の誰にも、この身は触れさせない。




「―あのひとが、愛してくれるから」



あのひと以外の誰にも、この心は渡しはしない。





「それが、私の答えです。これ以上私に触れるおつもりなら、死をも覚悟して下さい」





熙子はきっと信長を睨んでみせた。

信長はそのまっすぐな眼を見て、ほうと息をついた。




―美しい




「なるほど…噂に違わぬ女子だな」

くくっと笑いながら信長は言った。

「噂? 何の事です?」

熙子が、怪訝そうな顔をする。

信長はそれに答えず、笑ったまま言った。

「よかろう、此度は引き下がるとする。だが、どちらにしても、同じこと。この世のすべては、いずれ、わしのものとなるのだからな」

「たとえそうなろうとも、私は決してあなたのものにはなりません」

強く撥ね退けるような口調で、熙子は言う。

信長は、面白そうにそれを見て、何も言わずに、また暗がりの中に溶け込んでいった。


しん、とした静寂が辺りを包み、熙子はしばらく身動きができなかった。

と、するりと体から糸がほどけるように、熙子は床に崩れ落ちた。


「―こ、」


がくり、と膝をつく。


「こわかった…!」


一度口にしてしまうと、それは言い様のない恐怖感として、体にまとわりついた。
底冷えするような感覚が、体中に回る。知らず知らずの内に、腕を抱えていた。


―なんて、人


誰もいない廊下で、吐き出すように熙子は呟いた。



救いが欲しかった。助けが欲しかった。

一人でいると、壊れてしまいそうだった。


「お熙?」


ぽん、と肩に手が触れ、びくりと体を震わした。
けれども、耳にした声は、馴染み深い、優しいもの。

「こんなところで、何をしているのです?」

「光秀様…!」

振り返って見ると、そこには見慣れた夫の姿があった。

怯え、縮こまる熙子の姿を、不思議そうに見つめている。

「今日は出仕日だったはずでしょう? どうして、このようなところに…」

光秀の言葉が、止まる。

熙子が不思議に思い、光秀の視線を追ってみる。

その先には、淫らにはだけ、白い肌がうっすらと見える胸元があった。


―あっ…!


熙子が慌てて胸元を掻き抱く。

着物の合わせは、おそらく突き放したときに乱れたのだろう、白い肌が露わになっている。

「お熙…どういうことです、これは」

「光秀様…違うの、これは別に…」

「お熙」

光秀の声が、強く響いた。
見ると、瞳が、燃えるような光でこちらを見ている。

「―話して、下さい」

びくり、と肩が震えた。

温和な夫の、滅多に口にしない冷たい声だった。



―ああ

―ごまかせない、このひとの前では


―いいえ、ごまかしたくない



「信長様に、襲われました」

「―!」

驚愕の声と共に、肩に置かれた手に力が入る。

「けれども、ご安心下さい。抱かれてなど、おりません」

熙子は大きく首を横に振った。

「この身は守りました―多少、着物は乱れてしまいましたが」

胸元を守るように熙子は着物の合わせをきつく握り締めた。

「…光秀様?」

光秀の声がしないのを聞き、熙子はさっと夫の顔を見上げた。



「―許しません」



冷たい声音は、変わってはいなかった。


「私に対する数々の侮辱は、気にしてはおりませんでした―けれども、よりにもよって、お熙を手にかけるとは」


瞳の色が、いまやはっきりとした怒りに満ちていた。


「よもや、そんなことは―と思っておりましたが」


怒りに染まった瞳は、普段のそれとは比べ物にならなかった。


その瞳に、ぞっとする。

何も言わずに立ち上がりかけた光秀を、慌てて熙子が制止する。


「やめて、光秀様!」

「止めないで下さい、お熙。いくら信長様とて、あなたに手を出すなんて―」

「私は大丈夫だから、平気だから!」

「しかし―」

光秀の言葉が、そこで止まる。

見ると、熙子の眼から大粒の涙がこぼれていた。


「お願い…ひとりにしないで」


ぽろり、と大きな一滴が熙子の膝に落ちる。

光秀は床に膝をつくと、その小さな肩をそっと抱き締めた。

「すみません、お熙。私としたことが、あなたの気持ちも考えずに―」

「それはいいの。でも、お願い。今は離れないで」

光秀の胸にすがりつくようにして、熙子は呟いた。

それを守るように、光秀がより優しい手つきで抱き寄せた。


夫の暖かい体温を感じながら、熙子は思った。


―あのひととは、違う


その瞬間、あの底冷えするような感覚が体を覆った。

たまらず、熙子は光秀の胸をより強く掴んでしまう。


「…った」

「え?」


「―こわかった」


言葉にしてみると、それはなんとあっけないものだろう。



「なんて―おそろしい、ひとなの」



脳裏に浮かぶは、暗闇から出てきた男の姿。



「あんなひとを、わたしはしらない」




―すべてを憎んでいながら、すべてを愛しているような


―すべてを慈しんでいながら、すべてを恨んでいるような




「あんな眼をするひとを、わたしはしらない」




―虚無と混沌の間を歩くような


―絶望と希望を同時に与えるような




「あんな風に相反する感情を持つひとを、わたしはしらない」




―すべてを欲していながら、すべてを捨て去っているような


―すべてを常に見下していながら、すべてを常に見上げているような




「おそろしい―わたしはきっと、一生あのひとを理解できない」




熙子は改めて、自分の腕を抱え込んだ。

あのとき、腕と口を押さえ込まれただけで、動くことができなかった。

そんなことが、できるようなものではなかった。



「お熙―信長様が、恐ろしいですか」


ゆっくりとした声音で、光秀は言う。

熙子は一瞬間を空けて、強く首を横に振った。


「おそろしいわ―でも、負けはしないわ」


自分を抱き締める暖かい手を握り締めながら、熙子はきっぱりとした声音で言った。

見えないところで、不思議そうな顔をしている光秀に構わず、その瞳は強い光を放っていた。



あなたはまるで闇夜のようで、ひきずりこまれてしまいそうだけど



わたしの大事なこのひとだけは、決してその深淵に連れていかせはしない


あのひとの想いに報いるために、あのひとへの想いに誓うために




―夜は必ず明けるもの、明日の日は必ず昇るもの



あなたを想うがゆえに、わたしはあなたを護ります



この身と 心と 貴方に 誓いを



―死にゆくその日まで、あなたをお守りいたします




−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2005/02/21)

サイト開設記念に瑠璃様に捧げますv 暗めかつ、長めな話です。
リクエストは「光秀と煕子がラブ×2しててあまあまなお話で、ついでに煕子にちょっかいだす
信長と、それにカッカカッカしてる光秀」のはずだったんですが…おかしいな。
私の脳内で「信長の暴行未遂」の逸話、となんか形が決まってしまい、こんなお話に…。
光熙ラブラブしてないし、甘々でもないし、光秀もそんなカッカカッカしてないし…。
リク守れてる部分といったら、「熙子にちょっかいだす信長」くらいですね、どうもすみません;
話の内容の方は、やっぱり前々から一度は書きたいと思っていた内容だったので、
必要以上に力が入ってしまいました; 遅くなったのもそのせいです、ごめんなさい!
自分としては、やっと自分の中の理想の熙子像が書けたような気がします。
うちの熙子は本質的には強いんですよ、愛に生きている人だから(笑)
熙子の男嫌いは男の視線が基本的に嫌いなのです。だから、人目の多いところはあまり好きじゃないです。
城持ちの家臣の妻が主君の城を訪ねるときは、どうするのかわからなかったのでその辺はお許しを。
背景は初の黒背景。内容的にも、白背景よりずっと合うと思いましたので。
タイトルは「夜明けの約束」という意味。誓いは確かに約束された、という思いを込めてみました。


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