接吻
「政宗様、少しよろしいでしょうか」
それは朝餉のあとのことだった。愛姫が、珍しく頼み事をするように政宗に声をかけた。
「うむ? 何だ」
政宗は考え事を取りやめ、愛姫の方を向いた。政宗と視線が合うと、愛姫は人差し指を立てて言った。
「私が今からある言葉を言います。その意味をお答え下さい」
「…それは謎かけか?」
突然の言葉に、政宗は怪訝そうに眉を寄せた。そんな政宗に、愛姫はにっこりと微笑んで見せた。
「ちょっとした、退屈しのぎです」
戦が終わったばかりの穏やかな日だ。退屈といえば確かにその通りであった。
「まあ、別に構わぬが…」
「よかった」
政宗が答えると、愛姫はまた微笑んだ。政宗はこの笑顔が好きだった。冬の長い奥州の米沢城の中で、そこだけ春になったような暖かさを持っていた。
「それでは、言います」
「うむ」
愛姫は右手と左手をぽんと合わせた。
「接吻とは、どのような意味でしょう?」
瞬間、横で茶をすすっていた片倉小十郎が噴き出した。
「おい、小十郎! 貴様、何をしておる。畳が汚れるだろう」
「も、申し訳ありません。つい、驚いてしまって…」
慌てて謝る小十郎に、政宗は呆れたように溜め息をついた。
「全く…」
雑巾を持ち出して床を拭いている小十郎から目を背け、政宗は再び愛姫の方を振り返った。
「愛殿、もう一度言ってくれるか」
「接吻です」
愛姫が言うと、茶をこぼした畳を拭きながら小十郎が振り向いた。
「愛姫様、それ本気でおっしゃっているんですか?」
「私、何かおかしなこと言いましたか?」
きょとんとした顔で愛姫が問い返すと、小十郎が苦笑して顔を背けた。
「いえ…」
政宗は、そんな二人のやりとりなど耳に入ってなかったらしい。伏せていた顔を上げ、愛姫に声をかける。
「愛殿」
「はい」
愛姫が呼ばれて振り返ると、政宗は顎に手をやりながら聞いた。
「それは、食べ物か?」
小十郎が勢いよく前のめりにつんのめった。まだ濡れている畳に顔を擦りつける羽目になった小十郎が驚いて顔を上げる。
「ま、政宗様…まさか、御存知ないのですか…?」
「貴様は知っておるのか?」
政宗は馬鹿にされたような気がしたのか、ついと眉間にしわを寄せた。愛姫が慌てて声をかける。
「ああ、政宗様。小十郎殿に訊いては駄目ですよ。これは政宗様の言うところ、謎かけにあたるのですから」
愛姫が素早く注意すると、政宗は照れたように頬を染めた。
「わかっておるわ」
「さすが、政宗様です」
愛姫は微笑んで政宗を誉めた。こういうときでも夫を立てるのを忘れないのが愛姫の妻たる所だろう。政宗は気をよくしたようで、威張ったような口調になった。
「まあ、わしは小十郎になぞ訊かんでも、この程度の謎かけはすぐにわかるからな」
「まあ、ではお答え頂けますか。接吻の意味を」
愛姫が隙をつくと、政宗はぐっと喉を詰まらせた。政宗は慌てて切り返した。
「す、すぐに言っては面白味がないだろう。折角の謎かけなのだからな。もっと時間がたってから言ってやる」
「そうですか、では政宗様。答えを言いたくなったら、私の邸にいらっしゃって下さい。今日でも明日でも構いません。でも、それまでは一歩たりとも私の邸に入ってはいませんよ」
愛姫はにっこりと微笑むと、立ち上がり襖に向かった。そして、襖を開くと思い出したように振り返った。
「あ、言っておきますが、城内の者に答えを訊いてはなりませんよ。こっそり訊こうとしても、すぐにわかりますからね」
愛姫は口元に指を寄せて、音を立てぬよう襖を閉じた。愛姫の足音が聞こえなくなると、政宗は小十郎の方を向いた。小十郎はすぐに察したようで、首を横に振った。
「言っておきますが、教えませんよ。愛姫様に忠告されたばかりではないですか」
「バカめ、誰が貴様に訊いた」
政宗は顔をむっとさせた。てっきり政宗が聞いてくるかと思った小十郎は少なからず驚いた。しかし、そんな小十郎など意に介さぬ様子で、政宗はにやりと笑った。
「城内の者が駄目なら、そうでない者に訊けばいい」
「それで、私のところに来たのですか」
真田幸村は戦場と変わらぬ出で立ちでそこに座っていた。ここは、米沢城の城下町のとある宿屋の一室である。
「そうだ、貴様は戦場によく出ているだろう。もしかしたら、その方面の言葉かと思ってな」
「せっぷん、ですか…」
幸村は顎に手をやった。政宗はふと思い出したように言った。
「そういえば、あの女狐はどうした?」
「女狐?」
誰のことを言っているのかわからなかったのか、幸村は首をひねった。政宗は頭をかきながらはあ、と溜め息をついた。
「忍びだ、忍び」
「ああ、くのいちのことですか」
幸村は合点がいったように、ぽんと手を打った。
「くのいちなら、今―」
「たっだいまー、幸村様!」
幸村が言いかけたところで、天井から騒々しい音を立てて逆さ吊りのくのいちが現れた。いつもの帽子に少し煤埃がついている。
「ここの屋根裏、絶対鼠の巣がありますよ! もう七匹も見かけ―って、何でアンタがここにいるわけ?」
無邪気そうな笑顔が一気に捲し立てたと思うと、さっと不審そうな表情に変わった。政宗も不機嫌そうな顔になる。
「別に、貴様に会いに来たわけではないわ」
ふんと政宗はくのいちを見下した目で見ようとした。が、天井から吊り下がっているくのいちに対してそれは無理だったようだ。
「ふうーん、幸村様に会いに来たの」
そう言うと、くのいちは軽い身のこなしで床に飛び降りた。足音も立てないのがくのいちらしい。
「で、伊達の若殿が何の用?」
くのいちの小馬鹿にした口調に、政宗はむっとしたようだった。言い返そうと口を開く前に、幸村が口を開いた。
「何やら、せっぷんの意味を知りたいらしい」
「せっぷぅん?」
くのいちは、はあ?と首をひねった。だがすぐに政宗を見ると、ああ、とにやにやし始めた。口元を手で隠してはいるが、頬には笑みがしっかりとこぼれている。
「ふう〜ん…伊達のお殿様は、そおんなことも知らないんだ〜…へえ〜♪」
くのいちは殊更楽しそうににやにやしている。政宗はその態度にすっかり頭にきて怒鳴った。
「貴様、何が可笑しい!」
憤慨する政宗をよそに、くのいちはまだ笑っている。腹を抱えて、隣にいる幸村に言った。
「え〜…♪ だって、まさか、こんなことも知らないなんて…ねえ、幸村様?」
笑いを抑えているようで抑えていないくのいちに対して、幸村はさらりと言った。
「そなたは知っておるのか? せっぷんの意味」
「…え」
瞬間、くのいちの笑顔が固まった。
「えええええっ!!??」
くのいちの驚愕の声は宿屋の屋根を突き抜けて、天まで届きそうな勢いだった。政宗と幸村はそのすぐ傍にいたのだから、たまったものではない。
「ま、まさか、幸村様も知らないんですか!?」
「くのいち、そなたの声はでかすぎるぞ…」
まだ耳鳴りのする耳を押さえながら、幸村が言う。しかし、そんな幸村の非難はくのいちの耳には全く届いていないようだった。
「ほ、ほんとに知らないんですか!? 接吻ですよ、接吻!」
「何だ、私が知らないと何かおかしなことでもあるのか?」
不思議そうに首をかしげる幸村に、くのいちは頭に手をやりながら深々と溜め息をついた。
「いや、幸村様が知らないのはむしろ納得がいくというか…」
くのいちは呆れてものが言えない、と顔を背けた。
「ふむ、そなたが知っているということは、もしかして忍の隠語か?」
ぽんと手を打つ幸村に、くのいちは顔を背けたまま返事を返した。
「それで使われる場合もあるかもですね…」
「何だ、貴様。知っておるならさっさと教えろ!」
政宗が痺れを切らしたように怒鳴った。するとくのいちはぶす、と口を尖らせた。
「何それ。それが人にものを訊く態度?」
「貴様にだけは言われたくないな、その台詞」
政宗は少しも横柄な態度を崩さなかった。二人の間に不穏な空気が流れた。幸村がくのいちに声をかける。
「くのいち、教えてやればいいだろう。この宿屋だって、政宗殿が手配してくれたのだし」
幸村が言うと、くのいちはちらりと横目で幸村を見た。そうして、思い悩むように腕を組む。
「ん〜、幸村様にそう言われると…」
くのいちは言いかけると、素早く飛び上がった。見ると、くのいちはもう窓の淵にしゃがんでいた。
「言いたくなくなりました。というわけで、団子食べに行ってきまーす!」
くのいちの姿は瞬きする一瞬ののち、掻き消えていた。窓から見える街の風景に、ぴょんぴょん跳ねる影が混じっている。幸村はその姿をしっかり見届けると、傍らの槍を手に取り立ち上がった。
「申し訳ない、政宗殿。急用が出来ましたので、失礼します」
「お、おい。どうした」
早々にでかける準備をし始める幸村に、慌てて政宗が声をかけた。
「くのいちは団子を食べに行くと言いました。だから、追いかけてきます」
「…言ってる意味が、よくわからんのだが…」
「あやつは、団子を食べると六文だけ払って逃げていくのですよ」
「…何故だ?」
「くのいち曰く、『足りない分は幸村様が払ってくれるから♪』という意味だそうです」
「…それで、貴様はどうするのだ」
「払います。くのいちの失態は私の失態ですので」
「………」
「けれども、あやつの胃袋は底が知れないところがあります。だから、出来る限り早くくのいちを見つけないと、私の懐が危ないのです」
「…そうか」
「はい。それでは失礼します。政宗殿。接吻の意味、お答え出来なくて申し訳御座いません」
「ああ、別に構わぬ…早く追いかけてやれ」
「はい」
幸村が槍を肩に担いで出て行くと、政宗は呆れながら頭をかいた。
「あやつも、苦労しておるのだな……」
「…というわけだ」
「ああ、さっき忍びのお嬢ちゃんが来やはったのはそのせいやったんか」
小さな団子屋の店先である。阿国が口元に手をやって納得したように息をついた。傍らにいる慶次が団子をごくりと飲み込む。
「十五本は食ってたからなあ、あの嬢ちゃん」
「…そんなに食ったのか」
「こいつにゃ、かなわねえけどな」
五右衛門が指差した皿にはすでに三十本余りの串がのっていた。その上、皿は三枚あった。
「これだけ食べて、貴様の懐の方は大丈夫なのか?」
政宗が皿を指差すと、慶次はまた一本団子を取った。
「大丈夫。食い放題だからな」
「ここは、そんなものやっていないはずだが」
「違う違う」
慶次は大きく政宗の目の前で手を振った。軽く政宗の前髪が巻き上がった。馬鹿力め、と呟いて政宗は前髪をなでつけた。
「ここの店の用心棒になったんだ。んで、その謝礼だ」
「店の者も、馬鹿な条件を出したものだな」
政宗は呆れたように腕を組んだ。阿国が目を丸くして政宗に言った。
「それで、政宗様はほんまに接吻の意味を知らへんのどすか」
「何だ、それで何か困るのか」
政宗はむっとしたような顔になった。
「別に、困りはしまへんけど」
阿国が少し困ったように言葉を濁す。
「結局、せっぷんとはどういう意味なのだ?」
政宗が詰問すると、三人が一斉に黙り込んだ。
「おい、慶次。貴様は知らんのか、せっぷんの意味」
矛先を向けられた慶次は慌てて目をそらした。
「あ〜…ちょっと、俺の口からは言い辛いねえ……」
「ん〜…確かに、これは口では伝えづらいもんやからなあ」
阿国ですら苦笑いをしてしまった。五右衛門が頭をひねりながら言った。
「見本を見りゃあ、すぐにわかるんだけどな」
「なら、見せろ」
「つってもなあ…」
きっぱりと言う政宗に、慶次が困ったように頭をかいた。すると、傍らの阿国がぽっと頬染める。
「あら、慶次様。うちは構いまへんえ?」
五右衛門の口がぽかんと開いた。突然の言葉に、慶次が慌てて阿国に声をかける。
「え、ちょ、阿国さん?」
「うち、ちいとばかし恥ずかしいけど、政宗様が見たい言うてはるし」
「阿国さん、それなら俺が……」
危うく忘れかけられた五右衛門が、ここぞとばかりに自分の存在を主張する。三人のやりとりを見ながら、政宗は首をかしげた。
「一体、何の話をしておるのだ?」
政宗は何を言っても聞こえなさそうな三人から目を離し、通りの方へ目を向けた。すると、こちらに近付いてくる男の姿が見えた。
「おお、孫市か」
「あれ、何でいるんだ?」
肩に火縄銃を担ぎ、雑賀孫市はこちらに向かってきた。三歩程近くに寄ると、からかうような口調で言った。
「どうかしたのか? お殿さんがこんなところにいて大丈夫か」
「貴様こそ、どこに行っておったのだ」
政宗が言うと、孫市はさらっと前髪を掻き上げた。
「ああ、秋の紅葉のような美しい人を見かけたものでね」
「また女か」
政宗は呆れて、鼻を鳴らした。ふと、思いついたように孫市に聞いた。
「そうだ。貴様、せっぷんの意味を知っているか?」
政宗の質問に、孫市は、はあ?と頭をひねった。
「せっぷうん? 何でまた」
政宗が理由を説明すると、孫市は納得したように顎に手をやった。
「ふうん、あの姫さんがねえ。じゃあ、俺が意味教えてやろうか」
孫市が自分を指差した。政宗は興奮した様子で声を上げた。
「知っておるのか!」
「もちろん、だてに色男は名乗っちゃいないぜ」
孫市は自慢げに肩に担いだ火縄銃を振って、胸をそらした。
「それで、一体どういう意味なのだ?」
政宗が勢い込んで言った。孫市が軽くしゃがんで政宗に視線を合わせる。
「接吻ってのはな、愛情表現の一つだ。口付けとも言うな」
「口付け?」
政宗が不思議そうに反唱する。孫市が頷く。
「そうだ。愛情や親しみを込めて、相手の唇や頬に自分の唇で触れるんだ」
ごく、軽い調子で孫市は言った。政宗は目を丸くさせながら、孫市が言った意味を確かめるように繰り返した。
「愛情や親しみ…?」
「そうさ」
政宗は頷く孫市に、ふっと湧いた疑問を口にした。
「何故、それが唇でなくてはならんのだ」
政宗が問うと、孫市はしばし悩むように顎に手をかけた。
「ん〜、考えたことなかったな」
孫市はしばらく考え込むように頭を巡らすと口を開いた。
「多分、愛してるとか、好きだとかいう言葉は唇から出るからじゃねえの」
「…唇から…出るからか」
「そ、だから一番愛情や親しみが伝わりやすいんだよ、きっとな」
孫市はようやく解説が終わった、と息をついた。政宗はしばらく俯いたまま黙っていたが、やがて口を開いた。
「何故、愛殿はわしに接吻の意味を問うたのだろうか」
俯いたまま呟く政宗に、孫市はにやりと笑ってみせた。
「さあねえ。俺が思うに、してほしいんじゃねえの、接吻」
「な…何を言うか、貴様!」
政宗の顔がかあっと赤くなった。怒ったように立ち上がる。
「愛殿は貴様と違って、そんなはしたない輩ではないわ!」
「別に、接吻ははしたないもんじゃねえだろ」
孫市が何勘違いしてんだ、と呆れた顔をした。
「でもさ、ホントにしてほしいのかもしれねえぜ。姫さんはさ」
「何故、そうなるのだ」
「だって、旦那はいつも戦場。帰ってきてもお子様とくりゃあ、欲求不満にもなるだろ」
「子供扱いするな!」
政宗がいきり立っても、孫市は気にした様子はなかった。ふっと、孫市の目が穏やかな目に変わった。
「まあ、正直な話、これは姫さんからの遠回しな気持ちかもしれないぜ」
「気持ち…?」
怪訝そうに首をかしげる政宗に、孫市はにかりと笑った。
「あんたのことが好きだってこと、あんたが自分のことを同じように好きだと思ってくれてるかってことさ」
「………!」
政宗は思わず口をつぐんだ。口には出さないが、確かに愛姫はそう思っていたのかもしれない。そういう気持ちがあるのだろうか、と思っていた自分がいたことも確かなのだから。政宗が黙り込んでいるのを見て、孫市は追い討ちをかけた。
「で、あんたは正直なところどうなんだ。姫さんのこと、好きなのか?」
孫市の問いの政宗は目を背けた。髪から垣間見える耳が赤く染まっている。
「…当たり前、だろう」
―彼女は自分を恐れなかった。
―彼女は自分を想ってくれた。
―彼女は自分を支えてくれた。
――そんな彼女を、どうして愛さずにいられよう。
「…城に戻る」
「ああ。帰ったら、接吻してやれよ」
孫市の冗談すら聞こえないのか、政宗は踵を返すと早足で歩いていった。しばらく歩くと、政宗が振り返らずに言った。
「孫市」
「おう」
孫市が返事を返すと、政宗は小さな声で呟いた。
「愛とは、何だ」
孫市は立ち上がって政宗を指差した。指差した右手が鉄砲の形をしている。孫市は片目をつぶって微笑んだ。
「ためらわないことさ」
孫市が言うと、政宗はほんの少しだけ顔をこちらに向けた。
「…バカめが」
政宗は呆れたように呟くと、城へ向かって再び歩き出した。政宗が見えなくなると、阿国が孫市に声をかけてきた。
「あれー、政宗様は?」
「帰ったよ」
「何や、接吻のことはもうええんか。つまらへんなあ」
がっくりしたように溜め息をつく阿国を見て、孫市は楽しそうに笑った。
「おや、政宗様。お帰りなさいませ」
城に戻ったときには、もう城の池が夕焼け色に染まっていた。政宗は孫市と別れたあと、しばらく町を歩き回っていた。そうしてわかったのは、幸村が七軒目の団子屋でようやくくのいちを捕まえたということだけだった。政宗は小十郎の顔を見ずに言った。
「…愛殿はどこにおる」
「愛姫様なら朝からずっと邸の方にいますよ。食事も侍女のお清殿が運んでいて、邸から出てこないんです」
「…そうか」
政宗がそっと呟くと、小十郎は優しげな目で言った。
「きっと、待っていたんですね。政宗様がいつ来られてもよいように」
小十郎の言葉に、政宗の顔がかあっと熱くなる。愛姫はいつもそうだった。帰るべき場所を与えてくれる、それが愛姫の姿であった。
「ところで、政宗様。接吻の意味わかったんですか?」
「うるさいわ!」
小十郎の問いに答えず、政宗は怒鳴った。小十郎が一瞬ひるんだその隙に、政宗は愛姫の邸に向かって駆け出した。
「あっ、政宗様!」
政宗は振り向かず、走り続けた。孫市の言葉が頭の中を反芻する。
『さあねえ。俺が思うに、してほしいんじゃねえの、接吻』
まさか! あの愛殿がそんなことを……
『だって、旦那はいつも戦場。帰ってきてもお子様とくりゃあ、欲求不満にもなるだろ』
確かに、わしはあまり愛殿の傍にいてやれないが……
『あんたのことが好きだってこと、
あんたが自分のことを同じように好きだと思ってくれてるかってことさ』
口にしたことはなかったが…だが!
『で、あんたは正直なところどうなんだ。姫さんのこと、好きなのか?』
「………!」
政宗の足が止まる。政宗はすでに愛姫の邸に着いていた。襖を開ければ、すぐのところに愛姫がいる。政宗は襖に手をかけ、ほんの少しだけためらった。しかし、それも一瞬のことで政宗はすぐさま勢いよく襖を開いた。襖を開けてすぐのところに、愛姫はいた。目をきょとんとさせ、顔を政宗に向けている。政宗はこんな時でありながら、可愛い、と思った。
「政宗様…!?」
突然の政宗の登場に慌てた愛姫は焦ったように両手をわたわたと動かした。ひよこのようだ、と政宗は思った。
「あ、答えを言いに来たんですか?」
愛姫はまだ焦ったような口調だったが、表情は笑顔だった。いつも通りの優しい笑顔だった。政宗のの頭に再び孫市の言葉がよぎる。
『あんたが自分のことを同じように好きだと思ってくれてるかってことさ』
「…政宗様?」
黙り込んでいる政宗を不思議に思ったのか、愛姫が首をかしげる。政宗にはそんな愛姫の言葉が聞こえてないようだった。
「…バカめ、想っているに決まっておろう」
政宗の声は小さく、愛姫の耳には届かなかった。愛姫が、ん?と再び首をかしげる。
「…見せてやるわ」
「はい? 政宗様、よく聞こえな―」
やんわりと訊ねる愛姫の言葉が政宗の声で遮られた。
「…そこまで言うなら、見せてやるわ!」
政宗はほとんど怒鳴るようにして言うと、愛姫の腕を強く引っ張り上げた。愛姫が驚いて声を上げる。
「ま、政宗さ―!?」
言葉は最後まで続かなかった。愛姫の唇が政宗の唇でしっかりと塞がれてしまったからだ。それは口付けると言うよりも、奪うと言った方が正しかった。強引なそれは、優しさこそこもってなかったが、ひたむきなものだった。政宗は目を閉じていたので、目の前にある愛姫の顔が見えなかった。いや、見る勇気がなかったのかもしれない。唇が繋がっていたのは永遠の一瞬だったのか、一瞬の永遠だったのか、ともかく時間を感じさせないものだった。政宗が掴んでいた愛姫の腕を離した。それと同時に、重なっていた二人の唇も離れた。政宗は目を閉じたまま、ぷいと横を向いた。顔を真っ赤にして愛姫に言う。
「愛殿、答えを持ってきたぞ。これが接吻であろう」
政宗は言うと、愛姫をちらりと見た。愛姫はいきなり腕を離されて少し体勢を崩したようだった。政宗の片腕に支えられて何とか両足で立っていた。口元に手を寄せ、ぼんやりとした顔をしている。愛姫は目を丸くしてとぼけた声で言った。
「はあ…これが接吻なのですか。私、全く知りませんでした」
きょとんとした表情で政宗を見つめる愛姫に、政宗は口をぽかんと開けた。
「…な」
思わず声が上ずった。政宗は、はっと正気に戻って叫んだ。
「だ、だが、愛殿はわしに問うたではないか! 接吻の意味は何か、と」
「はい、確かに問いました。でも私、意味を知っているなど一言も言いませんでした」
きっぱりと真顔で言う愛姫に、政宗は口をぽかんと開けた。確かに、愛姫は言わなかった。だが、普通問うた側が意味を知っているのは当然のことのはず…。政宗が閉口してしまっていると、愛姫は床に腰を下ろした。
「私が今朝ああ言ったのは、これのためでございます」
愛姫が手に取ったのは、藤色の羽織だった。それは確か、政宗がこの間外に抜け出す際に裾を破ってしまったものである。愛姫も一緒にいて、折角綺麗な色なのに、と呟いたのを政宗は覚えていた。
「政宗様は捨てるとおっしゃいましたが、直せばまた着れると思いまして…今日、ほつれた所を縫っていたのです。でも、政宗様に内緒でやりたくて…だから、お清に相談したんです」
愛姫が顎で部屋の隅を指した。政宗がはっと目を向ける。そこには、愛姫の侍女のお清が座っていた。政宗の方へ顔を向けて、ぺこりと一礼する。ほんのりと頬に赤みがさしていた。政宗は先の接吻を見られたことがわかり、顔が熱くなった。
「そしたら、こう言えばいいと言いまして。それで今朝、政宗様にああお伝えしたのです」
愛姫のその言葉を聞いて、政宗はほとんど睨むようにしてお清を見た。お清はすっと目をそらし、すました顔をしている。おそらく、この侍女は政宗が接吻の意味を知らないと思って言ったのだろう。いや、それどころか、こうなることを予想していたのでは……。政宗はそう思うと、お清を睨まずにはいられなかった。
「お清の言う通りでした。政宗様は確かに私の邸へ来なかったのですから。おかげで、羽織もしっかり縫えました。ほら、政宗様」
姫が差し出した羽織の裾は確かに綺麗に縫われていた。今日一日、彼女はこれを縫っていたのだ。ただ、自分のために。
「政宗様、着て頂けますか?」
愛姫がにっこりと微笑む。政宗はその笑顔に導かれるようにして受け取ると、青葉色の着物の上に羽織った。愛姫が嬉しそうに声を上げる。
「よく似合います」
自分のことのように喜ぶ愛姫を見て、政宗は思わず顔を赤らめた。照れているのを隠すかのように、
「これからは毎日着よう。愛殿が折角縫ってくれたのだからな」
と政宗は慌てて言った。心地よい、気恥ずかしさがあった。愛姫はしばらくにこにこと見つめていると、ふと思いついたように言った。
「そういえば、政宗様。私、接吻がどういうものかはわかりましたが、あれはどういう意味を持つものなんですか?」
愛姫が訊くと、政宗はぎくりと体を固くした。愛姫はそんな政宗の様子に気付かなかったようで、質問を繰り返した。
「ねえ、政宗様。一体、どういう―」
「知らん!」
政宗は怒鳴ると、ぱっと愛姫に背を向けた。耳まで赤くなってしまっている政宗に、愛姫は構わず政宗の背中を引っ張る。
「でも、政宗様。さっき、答えを持ってきたと―」
「教えぬ! 愛殿には絶対教えぬ!」
「ええ、どうしてですか?」
「教えぬものは教えぬのだ!!」
「だから、どうして教えて下さらないんですか?」
「どうしたもこうしたもない! 駄目なものは駄目なのだ!」
「だからどうして!」
「とにかく駄目なのだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る政宗に、とことん不思議そうに質問を繰り返す愛姫。ちっとも終わりそうにない押し問答を繰り返す幼い夫婦を眺めて、お清はふっと部屋の隅で溜め息をついた。
「全く…まだまだ子供ですね、お二人共」
愛姫が、家臣の鬼庭綱元によって接吻の意味を知ったのはそれから数日後のことであった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(2004/07/20)
まさむねは「せっぷん」をおぼえた! まさむねは「おとなへのかいだん」をひとつのぼった!
タイトルがこっぱずかしい一品。政愛なのに、愛姫が少ししか登場してないんですよ。
あ〜、すっごい恥ずかしかったです(赤) 私、キスシーンってものすごい苦手なんですよね。すごい抵抗がある。
じゃあ、どうしてこれは書けたの?っていうと、だってほら、政愛は夫婦ですから。夫婦は辛うじて、ね。
幸くのだったらきっと無理ですよ。相手が寝てたり、とかでないと(出来んじゃん)
予想以上に孫市が出張りました。「愛って何だ?」「ためらわないことさ」のやりとりが書きたくて、つい…
あ、小説の中で孫市が言っている「何故、唇でなくてはいけないのか」の答えは私の考えです。
みんな、そんなこと考えないでしてると思いますがね。
さて、ここでも嘘一つ。接吻っていうのはキスの和名みたいな感じで親しまれておりますが…実際は↓
せっ−ぷん【接吻】
愛情・親愛などの気持ちをこめて、相手の唇・手などに自分の唇で触れること。
幕末に出来た新漢語。口付け。キス。
まあ、孫市が言っていたのとほぼ同じですね。注目すべきは次の点↓
幕末に出来た新漢語。
幕末…つまり、それまではこう呼ばれる行為そのものがなかったということ。
つまり、戦国時代に接吻はなかった、ということ。
…まあ、無双ですから。だって、信長と濃姫OPでしてますし、うん、問題なしですね。
(ほんのり慶次←阿国←五右衛門を目指してみた…駄目ですかね?)
背景は薔薇の花びら。花言葉は『愛情』。ある種のらぶいちゃ話だったので;
