絶縁体
 今日がそう、取り立てて凄い日だったというわけではなかったのです。
 窓辺に飾られた観葉植物たちは相変わらず花を咲かせていないし、眩しい朝日はいつもどおり眠気を払ってくれました。友達どころか、もはや家族とすら呼べるように長い付き合いの愛犬ミカエルは元気な笑顔――そう、これ以上ない笑顔――を見せてくれていましたし。
 ただ1つ、いつもと違ったのは――
 今日、4月4日が、私、鞠絵の誕生日だったということでした。

 ここ数年の誕生日は、いつも療養所で過ごしていました。体が生まれつき弱い私が療養所から出たことは、数えるほどしかありません。そして、その外出のときの付き添いは、いつも兄上様でした。

 私には兄上様がいます。とても優しく、私の身体を気遣ってくれ、私が気落ちしているときは面白いお話で笑わせてくれる――
 兄上様は世界で最高の兄上様です。
 もちろん、私の兄上様はお一人だけですし、他に比べる男性も少ないですから、『最高』なんて言うのはおかしいかもしれませんけど。
 それでも、私の知る中では、正真正銘、世界一の方なんです。

 3日前の日曜日、お見舞いに来てくださった兄上様は「鞠絵の誕生日には必ず来てやる」と約束してくださいました。用事があるそうなので、午後から、ということでしたが。
 でも、私は思いました。本当は午後の用事があるのでは、わたくしのために貴重な時間を割いてきてくださるのでは、と。そういうと兄上様は笑ってこう言いました。
「バカだな、鞠絵は。そんなことあるわけないだろ」
 本当に、屈託のない笑顔でした。その笑顔を見ただけで、私は胸が熱くなって――もう少しで嬉し涙が出てきそうになりました。

 兄上様が午後にいらっしゃるということなので、看護婦さんが兄上様が着てから誕生日パーティをしましょう、と提案してくださいました。でも看護婦さんたら、
「それとも、兄上様と2人っきりのほうがいい?」
 と言ったんです。わたくしは「それもいいな」と思いましたが、すぐに首を横に振りました。あまりに勢いよく振ったものですから、少しよろけてしまいましたけど。ふふ……

「ハッピバースデイ、トゥユー!」
 皆さんが誕生日の歌を歌い終わりました。そして、車椅子に座った私の後ろには、兄上様が。
 私は目の前の大きなケーキに立てられた数本のろうそくに向かって息を吹き付けました。
 けど、息が足りなかったのか3本ほど残ってしまいました。すると兄上様が、
「ほら、もう1回ふいてごらん」
 と耳元でささやきました。私は顔を真っ赤にしながら――息をたくさん吸ったせいなのか、それとも恥ずかしかったからなのかは、分かりませんでしたが――ろうそくを吹き消しました。
 瞬間、
『パン! パパン!』
 とたくさんのクラッカーが一斉に鳴って、紙テープが私の病室を縦横に飛び回りました。
「鞠絵ちゃん、誕生日おめでとう!!」
 看護婦さんたちや、同じ入院患者の方達、そして兄上様に囲まれて、私は言いました。
「みなさん、ありがとうございます!」

 パーティが終わって、看護婦さんたちがお部屋を片付けてお帰りになったあとも、兄上様はお帰りになりませんでした。少し焦ったようなお顔で、何度も時計と窓の外を交互に見つめていました。
「どうなさったんですか? 兄上様」
「い、いや、なんでもないよ」
「でも、何度も時計を……」
「たいしたことじゃない……いや、たいしたことだけど。鞠絵は気にしなくていいから」
「そう……ですか」
 少し悲しくなりました。兄上様が私に隠し事をしていることではなく……兄上様が焦っているときに何も出来ない私が、ふがいなくなるのです。
 兄上様、鞠絵は兄上様のお役に立てないのでしょうか……
「鞠絵」
 不意に、兄上様が呼ぶ声が聞こえました。
「は、はい」
「ちょっと外に出るけど……いいかい?」
「え、ええ」
「帰るわけじゃないから。じゃ」
 そう言って兄上様は出て行きました。
(どこに行ったのかしら)
 兄上様が出て行ってしばらくして、私はそうっと廊下に出ました。
 兄上様は、この階の受付で、誰かと電話していました。見たことのないような、厳しい剣幕で、小声ながらも相手の方に怒鳴りつけていらっしゃいます。
「――診療所に今日中に届けてくれって言っただろ――え? 今からじゃ今日中は無理? 今日じゃなきゃダメなんだよ! バイク便でもなんでもいいから、とにかく今日中に! 分かったな!!」
 それだけ言うと、兄上様は叩きつけるように受話器を電話に置きました。兄上様がテレホンカードを取り出しているあいだに、私は急いで病室に戻りました。
(そんな……兄上様が……)
 初めて見る、怒っている兄上様。いつもの優しい顔からは想像できないほどの・・・
「鞠絵?」
「あ、兄上様?」
 後ろに兄上様が立っていました。いつのまにか病室に戻ってきていたのです。
「鞠絵、どうしたんだ? 真っ青だぞ?」
「な、なんでもありません……」
 思わず顔を背けてしまいました。
「そうか? 気分悪いんじゃないのか?」
「なんでもありませんっ」
 思わず、語気が荒くなりました。そして、
「……あ……っ」
「鞠絵……」
 気がつくと、兄上様が驚愕の顔で見ていました。
「あ、兄上様、ごめんなさい! 私、そんなつもりでは……」
「そんなつもりって、まだ何も言ってないだろ?」
「え……」
「驚いたな。鞠絵もそんな大声出せるんだ」
「そ、そんな……」
「そんなことないって? でも、しかとこの耳で聞いたんだぞ」
「兄上様ったら! もう!」
 いつもの兄上様でした。からかうような、でも優しい笑顔の兄上様がそこにいました。
 そのとき。
「あれ? この音、外から?」
 久しく聞く事のなかった低いエンジン音が外から聞こえていました。
「お、来たか」
「来たって、何がですか?」
 訊く私に、兄上様はウィンクして言いました。
「鞠絵へのプレゼントさ」

「兄上様。こ、これ……ドレス?」
「ピンポーン」
 エンジンの音を聞いた兄上様は、風のように病室を出て行きました。そして戻ってきたときには、大きな箱を担いで持ってきました。その中に入っていたのが――
「直接持ってくるには大きすぎたからさ。宅急便で頼んだんだけど、なかなか来ないからビビッたよ」
「じゃ、じゃあ、さっきの電話は……」
「聞いてたのか。ちょっと運送会社に文句言ってやったん――うわっ!」
 私は兄上様に抱きついていました。大きなお体。暖かい胸にすがり付いて、私は泣いていました。
「ま、鞠絵?」
「私っ、私っ! 兄上様が怖かった……」
「怖かった?」
「あんなにお怒りになった兄上様、見たことなかったから……。……でも……」
「………………」
「私へのプレゼントのために、あんなに一生懸命になってくれて……そのために、あんなに怖い顔になって……」
「あー。怖がらせちまったんだな。ごめんな、鞠絵」
「いいえ、そんな謝らなくてもいいです……」

 鞠絵は、兄上様が「兄上様」で、よかったです……
 ずっと、ずっと――大好きです。

「兄上様、このドレス、着てみてもいいですか?」
「うん、いいよ」
 頷く兄上様に頭を下げて、私はカーテンで仕切られた着衣場所に入りました。
「……わぁ」
 それをまとってみて、思わず感嘆の声がもれてしまいました。それはまるで、外国の社交パーティに着ていくような、とても綺麗なドレスだったからです。
(あんまり着る機会がないかもしれないですね……いつか、病気が治ったらこれを着て兄上様と……)
 その光景を想像して――そして、ちょっとイタズラをしてみたくなりました。ふふっ。
「兄上様っ」
 私は、カーテンの向こうにいる兄上様に呼びかけました。
「なに?」
「あの、その……」
 ちょっと気が引けてしまいましたが……私は言いました。
「あの、背中のチャック、上げてもらえませんか?」
「うん、いいよ……って、えええええ!?」
 兄上様は、ちょっと驚いたようですが、ちゃんと――もちろんカーテンの隙間から――背中のチャックを上げてくださいました。
 その間、頼んだ本人である私の顔が真っ赤になってしまったのは――内緒ですよ?
"Pure water"closed.

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