忠犬ミカエル
 我輩は犬である。名前はまだないわけがない。ミカエルである。
 この名は、偉大なりし主人、鞠絵殿がつけてくれた。素晴らしい。知性あふれる名である。
 しかし――
 今日の彼女は、どこか落ち着きがないようだ。
 理由は知っている。今日は、彼女の誕生日だ。


 鞠絵殿は朝が早い。そして我輩は、彼女の衣擦れの音を聞いて目を覚ます。まあ、我輩は寝ていても半分起きているようなものだが。
 が、今日は定刻になって、彼女は起きなかった。我輩は、自慢ではないが記憶力が余りよくない、寝る寸前となると尚更だ。
 察してみるに、彼女はなかなか眠れなかったのではないだろうか? だとしたら、起こさずに置くべきか。彼女は体が弱い。疲れを残したまま運動するのは辛いだろう。


 いつもより1時間遅く、彼女は起きた。灰色の顔(注:犬は色盲です)はいつも通りに我輩をやさしく見つめてくれている。問題ない。


 “先生”の訪問。彼は鞠絵殿の病を治すために存在している。だが成果はあまりないようだ。我輩が知る限り、我輩の生涯のほとんどの時間を、彼女はここで過ごしている。
 否、我輩は信じている。いつか共に、海岸を思いっきり走ることができることを。
 ……ふむ。


 昼食を終えると、我輩は昼の就寝中である鞠絵殿のそばから離れた。祝いの宴は夕刻に行われる。それまでに帰ればよい。

 見たことのない風景の中、我輩は匂いだけを頼りに進んだ。
 こっちか?
 いや、こっちか。むう、人間どもめ、何故にこのような複雑な道を…


 目的地に辿り着く。風が気持ちよい。思わずはしゃぎたくなるが、やめておく。
 西方を見ると、黒い日が傾いている。急がなければいけない。


 参った。道に迷ったようだ。目的地の匂いが強烈過ぎて、鞠絵殿の匂いを失策してしまった。
 ここは、服が置いてあるな。去年、兄上殿が鞠絵殿に謙譲した衣類に似ている。
 しかし、手がかりにもならんか。どうすれば…
「お?」
 む?


「いらっしゃい兄上様…み、ミカエル!?」
 我輩は鞠絵殿の傍に駆け寄った。
「ミカエル!どこに行っていたの!?」
 鞠絵殿の顔が厳しい。これは怒り狂っている。仕方があるまい。もはや夜になってしまったのだから。
 我輩は尻尾を垂れて、陳情の言葉を述べた。すまない、鞠絵殿。しかし我輩は――
「鞠絵、ミカエルのこと許してやれよ」
 兄上殿が言った。そう、服の置いてある店の前で我輩を発見してくれ、ここまで連れてきてくれたのは兄上殿だ。いくら感謝してもし尽くせない。
「兄上様、何を?」
「ほら、ミカエル、見せてやれよ」
 言われたままにする。我輩は口に持っていたものを、鞠絵殿の膝に落とした。
「これは、貝殻? ピンクの?」
「ミカエル、わざわざ海まで行って、とってきたみたいだぜ? まあ、それで帰り道が分からなくなってちまってたようだけど」
「………」
 鞠絵殿の勢いが、目に見えて小さくなってきている。
「……ミカエル」
 鞠絵殿はそっと膝を床につけ、我輩の体を抱きしめてくれた。
「ありがとう……わたくしのために、頑張ってくれたのね。……怒ったりして、ごめんなさい」
 ああ。あたたかい。これでこそ、今日の苦労が報われると言うもの。
 鞠絵殿の感謝と謝罪に応える為に、我輩は大きく、鳴いた。


 我輩は犬である。名前はミカエル。
 今年も、今日は最良の日になったようだ。
"Loyalty"closed.

Back