いっしょにいる倖せ
「暑さ寒さは彼岸まで、っていうけど、本当だな」
 隣で言う兄に、可憐は聞いた。
「寒いの、お兄ちゃん?」
「いや、涼しくなったなって。朝なんか寒いぐらいだけど…可憐は? 寒くない?」
「ううん、平気。だって…おにいちゃんと一緒にいるんだもん」
 こういう一言を言うたびに、心臓が跳ねる。
 兄はどう思っているのだろうか。ちゃんと自分の気持ちをわかってくれているのだろうか。
 幸せで、不安な、この気持ちを…
「そっか」
 照れくさそうに頷く兄に、可憐も頷き返す。
「ま、店に入っても、まだ冷房きかせてるところもあるしな。こうして散歩するぐらいが丁度いいんだろうけど……せっかくの祝日なんだから、もっと色んな店にいったほうがいいかな?」
「せっかくの祝日だから、こうしてお兄ちゃんと一緒に、ゆっくりしたいの」
 空を見上げる。日曜まで座していた台風の影はなく、雲がぽっかり浮かぶ蒼空が広がっている。
「夏休みが終わってから…可憐とお兄ちゃん、一緒にいられるときが少なかったから…。だから、こうしてお兄ちゃんと一緒に歩いて、一緒にお散歩してると、とても幸せなの」
 にっこり笑う。傍らに兄がいる。本当に、ただそれだけが、世界で最高のことだった。

「……キャンバスに色が走ると……不幸が幸福に転じる……」

「え?」
 ばっと振り返る。
 たった今、二人の横を通り過ぎた通行人。その男が発した言葉のようだった。
 後姿からは顔立ちは望むべくもないが、なんとなく、影の薄い印象を受ける背中が遠ざかっていく。
「どうした? 知り合い?」
「う、ううん」
 首をふる。
「お兄ちゃん、今の、聞こえた?」
「何が?」
 わからない、という顔の兄に、可憐は、なんでもないと首をふった。
 男は近くのベンチに腰を下ろして、空を見上げてぼうっとし始める。
 と、兄の懐から電子音のメロディーが流れる。
 ちょっとごめん、と断ってから、兄が電話に出る。
「はい、御児ですけど。――友雅? どした。――いやムリだって。今デート中――嘘じゃねえよ。可憐とだけど。――だからな……」
 幾つか言葉を吐き、兄は嘆息して携帯電話を閉じた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「ごめん。友達がピンチってるらしい。二十分ばかり――いや、十分で帰ってくるから、待っててくれるか?」
「え――うん、いいよ」
「ごめんな! すぐ戻るから!」
 そういって兄は身を翻し、公園の外へと駆けていった。
「お兄ちゃん……」
 思わず溜め息が漏れる。了解はしたものの、一気に心が冷えた気持ちだった。
 ベンチに座る男を見る。先ほどは見えなかった顔が遠目からだがわかった。前髪は目元を覆っており、一見して魔法使いを思わせる。しかも、悪い魔法使いの印象だ。
(あの人が、お兄ちゃんと可憐を引き離したのかな?)
 そんなことすら、ふと思ってしまうと、顔を真正面に向けた男と、視線が合ってしまう。
「!」
 慌てて目をそらし、その場から立ち去る。
(ど、どうしよう…可憐が見てたこと、わかっちゃったかな?)
 羞恥が頬を赤く染めるのが自分でもわかった。
 火照る顔を手で押さえると、どこからか笑う声が聞こえた。
 見ると、男とは別のベンチに座っている女性が、口元に手をやってくすくすと笑っていた。
「あ――ごめんなさい」
 可憐の視線に気付くと、女性が頭を下げた。
「い、いえ」
 慌てて首をふる。と、女性の手元にスケッチブックが置いてあるのが見えた。
「あの――絵を描いているんですか?」
「ええ、そうですよ。――よろしかったら、ご覧になりますか?」
「え――は、はい」
 とことこと女性のベンチに近付くと、彼女は座る位置をずらして、スペースを開けてくれた。頭を下げて、そこに座る。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 女性からスケッチブックを受け取る。
「うわぁ……」
 思わず感嘆の声が漏れる。
 白い紙の上に展開していたのは、まさしく世界であった。
 開かれている――つまりは、今まで描いていたものということだろう――ページには、今可憐たちが座るベンチの真正面にある、天使の噴水であった。女性の手にある鉛筆で描かれたのであろうその絵は、可憐の素人目から見てもかなりの技量によるものだとわかる。
 ページを繰ると、蒼空の下に広がる高原や、夕焼けに染まった入り江、木の根元に咲いた雛菊など、様々な光景が一枚の紙の中に封じ込められていた。
「上手ですね。可憐、驚きました」
「ありがとうございます」
 女性は微笑んで礼を言った。
「すみませんね、笑ったりして」
「え?」
「実を言うと、あなたのことを見ていたんです。とても幸せそうだったので」
 幸せそう――恐らく、兄と一緒にいたときのことだろう。
「さっきの人、つきあってらっしゃるんですか?」
「つ――ち、違います!」
 思わず大声で否定し、そのことを恥じる。
「ご、ごめんなさい。可憐、大声出しちゃって……」
「いえ、別にいいですよ」
 そういう女性に、可憐は説明した。さっきまで一緒にいたのは兄であること、別居しておりあまり会えないこと、今日は誕生日で夏休み以降初めて長く一緒にいられること、そして、
「可憐、お兄ちゃんが大好きなんです」
 それを躊躇いもなく言えたのは、次に女性が発した一言で説明がつく。
「私も、兄がいるんです」
「そうなんですか?」
「ええ。あなたと一緒で、あまり会うことが出来ないんですけど」
「わぁ、すっごい偶然! お姉さんも、お姉さんのお兄さんが好きなんですか?」
 すると、女性は顔を曇らせた。
「はい。でも――」
「でも?」
「今まで一緒にいられなかったから、兄妹というものがどんなふうなものなのか、よくわからないんです」
「………」
「よかったら、教えてくれますか?」
「――はい!」
 そうして可憐は、さまざまな想い出を話した。ピアノを習って兄の好きな曲を弾けるようになったこと、一緒に遊園地に行ったり、デパートに買い物に行ったりしたこと、祖母から貰ったロケットにそっと兄の写真を入れていること。
 話の途中から、女性はスケッチブックに何かを描き始めたが、話しているときは気にしなかった。

「可憐ちゃんは、本当にお兄さんが好きなんですね」
 話し終えたとき、女性はそういって、スケッチブックを可憐に見せた。
「あ……」
 そこには可憐がいた。横顔のアップで、その顔は輝いた見えるほどに笑みを満面にしている。
「い、いつ描いたんですか?」
「話してくださっている間に。気分を害されたなら、可憐ちゃんに差し上げますけど」
 捨てるなり何なり、可憐の好きにしていい、ということだろう。
「いえ、別にいいです。でも、どうして?」
「そうですね。――偉大なる先輩に対しての、尊敬の念を表したかった、といったところです」
「先輩?」
「素直に、気持ちを表現できる、妹として」
 ね? と女性は片目をつぶった。
 可憐は頬が熱くなるのを自覚した。
 と、
「おーい、可憐!」
「あ」
「いらっしゃったみたいですね」
 公園の入り口から兄が駆けてくるのを見て、可憐は腰を上げた。
「それじゃあ」
「ええ、また会えたらいいですね」
 お互いに微笑み、可憐は足を踏み出し――そして振り返った。
「あのっ」
 女性が「はい?」と首をかしげた。
「可憐、よくわからないですけど――好きな気持ちは、伝えたほうが、絶対にいいと思います」
 それだけいって踵を返す。
 そして振り返らずに、まっすぐに、ただ一点を目指して走り続けた。


 
 その男は、一組の兄妹とは別の場所から、公園を出ようとしていた。
「……運命を我が物にしたいのなら……幸福も不幸も、現象として認めることだ……」
 ぼそぼそと聞き取りにくい声でつぶやく。その目は、ただ前だけを見据えている。
「……過去と今を否定して……正しい未来は得られない……」
 世界の中心たる男は、誰も聞き取れないおまじないジンクスを口にしながら、その場を去っていった。
Welcome to Jinx Shop PARTII"A girl, an artist, and a jinx man"closed.

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