マリー・ポッターと不思議な夢
「……――、――……」
「ん……んん……」
 名を呼ばれ、彼女はゆっくりと目を覚ました。
「……え?」
 光景に、違和感を感じる。自分はベッドで寝ていたはずだ。
 なのに何故、シミのついた木の机に突っ伏しているのだ?
「やっと起きたわね」
「え?」
 顔をあげると、そこには姉がいた。
「咲耶姉上様……」
「何、寝ぼけてるのよ」
「姉上様って、サクヤのこと?」
 声に振り向くと、やはり姉がいた。
「衛姉上様」
「え? ボクも?」
「何言ってるのよ、マリー」
「……え?」
 メガネをはずし、目をこすり、再びメガネをかける。
「あの、姉上様、私はマリーではありません」
「何言ってるのよ。マリーはマリーじゃない」
「そうだよ。おかしいよ? マリー」
 衛も言う。気付いた。二人の格好が変だ。自分も変だ。自分も二人も、四匹の獣の紋章がついた、黒いローブを着ていた。手元にはいくつかの本と、羊皮紙と羽ペン、そして握りのついた短い棒があった。
「さっさと行きましょうよ。次は魔法薬学よ」
「ニノマイは怖いよー。早く行こう、マリー」
「あ、あの。私はマリーではありません」
「まだ言ってるの? 先に行くわよ」
 そう言って咲耶は薄暗い部屋から出て行った。
「全く、サクヤは相変わらずだよ。勉強ばっかり。ま、僕も遅れたらいやだから、先に行くよ、マリー」
 衛も出て行ってしまう。
 彼女は呆然としたままつぶやいた。
「そうじゃなくて、私の名前は……私の名前は……」
 彼女は、自分の名前が分からなくなっていた。

「ポッター、遅いですよ……」
「ご、ごめんなさいっ」
 見たことのない校舎を歩き回り、ベルが鳴ったあとにようやく彼女はそこについた。
(どうやらここは学校みたい……私は生徒。姉上様たちも……)
「ポッター、席に着きなさい……」
「は、はいっ」
 着慣れないローブが足に絡まるのに苛立ちながら、手を振る衛の隣へ座った。
「マリー、こっちこっち」
「は、はい、姉上様」
「まだ寝ぼけてるのかい? マダム・ヤヨイのところに行ったほうがいいんじゃない?」
「い、いえ……大丈夫です。その――マモル」
 慣れない、姉への呼び捨てにやや抵抗を感じずに入られなかったが、彼女は笑って、
「良かった、いつものマリーだ。――でも、ニノマイの授業に遅れるなんて、君らしくないよ」
「ニノマイ――あの女の人?」
 ちらりと先ほど彼女を叱責した女性を見る。暗いローブに身を包み、なんとなく怖い雰囲気がある。
「おいおい、君がニノマイを忘れるんなんて、ボクがクィディッチを忘れるようなもんだよ? 君が一番目の敵にされてるんじゃないか」
「ああ――は、はい」
 思い出してきた。教壇の教師――ニノマイは、彼女の行動が悉く気に入らないらしい。それで彼女はいつも迷惑をこうむっていて、可能な限りニノマイを避けている。
「……今日は、禁じられた森にのみ生える、ディセンゴケを使った薬を作ります……これは火傷に効きますが、ディセンゴケそのものは強い毒性を持っています……気をつけるように」
 ニノマイに配られたディセンゴケは、毒々しい緑色をしていた。彼女を含めた生徒たちは、二人一組になって、火傷薬を作ることになった。
「……そこ、溶液は百度に保ってください……あなた、ディセンゴケは最初に刻んでおくように言いましたね?……」
 ニノマイは生徒たちを見て回りながら、プレッシャーを与えるような注意を口にしていた。
「大丈夫かしら……」
「大丈夫だって。作り方は教科書に書いてあるんだし、ちゃんとやればニノマイも文句は言わない」
「そ、そうですよね」
 作り方の説明を一つ一つ確認しながら、薬を作り上げていく。
(楽しい……)
 昔はできなかったことだ。昔は、何もかも他人任せで――
(昔って、いつ?)
 思わず手が泊まり、衛に叱責される。
 と、
「きゃああああああ!」
 甲高い悲鳴が上がり、教室中が視線を集めた。
「な、なに?」
「ロングボトム――!」
 ニノマイの鋭い叱責が、おかっぱ頭の少女に突き刺さる。
「花穂ちゃん!」
「あー、またカホか」
 衛が呆れたように溜息をついた。
 花穂はどうやら、溶液を手にかけてしまったようだ。ローブの端で右手の甲を拭いている。
「また失敗しましたね……まったく、何度失敗すれば気が済むのですか……?」
「違います、先生。カホが溶液を足そうとしたところを、チカゲが押したんです!」
 花穂と組んでいたらしい咲耶が、隣のグループの少女を指差す。
(千影……姉上様?)
 見ると、これ以上なくローブの似合った少女が、にやにやと笑っていた。
「チカゲめ……」
「衛姉上様?」
「またグリフィンドールにちょっかいをかけて! よっぽど君が気に入らないみたいだな」
「え?」
 千影が、自分を?
「さっき君が遅れてきたときも、ニヤニヤしてたよ」
「そんな……」
 信じられなかった。あの、優しい千影が?
「グレンジャー、口が過ぎますよ……」
「いいえ、私は本当のことを言ったまでです」
「私はやってませんよ」
 千影が冷ややかに言った。
「ロングボトムが私にぶつかってきたんです。彼女の不注意ですね」
「……そういうことです。ロングボトムの失敗と、グレンジャーの暴言で、グリフィンドールは20点減点です」
「そんな……!」
 咲耶が蒼白になる。
「待ってください!」
 彼女は思わず立ち上がっていた。
「マリー!」
「……なんですか? ポッター」
 咲耶の声と、ニノマイの問いが重なる。
「いくらなんでも、それはないんじゃないですか?」
「……何がです?」
「咲耶姉――サクヤは、真実を先生に話しました。カホも、わざとではないはずです」
「……ですが、教師を不愉快にさせれば暴言です。そして、失敗は失敗なんです」
「なら、チカゲが嘘を言っていない証拠でもあるのですか?」
 チカゲのにやにや笑いがとまった。
「……チカゲは私の寮の生徒。信じるのは当然です」
「先生なら、全ての生徒を分け隔てなく信じるべきだと思いますが」
「………」
 ニノマイの沈黙を、終業のベルが打ち破った。
「……授業はこれまでです。ポッター、あなたは一人で実験器具の片づけをしなさい……」
「なっ?」
「……もっと減点をされたいのですか?」
 ニノマイは薄い笑みで、そういった。

「マリー」
「マモル……」
 三個目のなべを洗い終えたところで、マモルが教室に入ってきた。
「ごめんなさい……まだ、終わってないの」
「ううん、手伝いにきたんだ」
「あ――ありがとうっ!」
 今日の授業は全て終わっている。出なければ、ニノマイも片づけを命じなかったはずだ。
 なべを洗い、床にこぼれた溶液をモップで拭き――二人は黙々と作業を続けた。
「でも、今日のマリーは凄かったな」
「え?」
「ニノマイにタンカ切っちゃってさ。いつもと違うよ」
「……いつもの私は、どう見えますか?」
「なんていうのかな。溜めちゃうんだ。その点、サクヤは何かしらで発散してるし」
「そう……ですか」
「今のマリーは、何か格好いいよ」
 でも、今の自分は、本当の名前すら覚えていないのだ――
 そのつぶやきは、マモルの耳には届かなかった。

「練習ですわよ!」
「はい?」
「マリー、リン、ヨツバ、カレン、ヒナコ、アリア! ユニフォームに着替えて、グラウンドに集合です!」

「ハルカのしごきはきついわー」
「デスー」
「ふふ、でも楽しかったです」
「マリーは元気だね」
「そうですか?」

「アクシオ! 羽ペン!」
「わお、成功! マリー、やったじゃん!」
「ありがとうございます」

「この生き物、何なんですか? ヤマダさん」
「マックヤマワ」
「――つっ……痛い……父上に訴えてやる」

 数日は、そんな調子で過ぎていった。
 まるで、何かを取り戻すように。

「何か、飲むかい?」
「い、いいえ……」
 彼女はためらいがちに言った。
 ごちゃごちゃとした校長室は、それでいてきっと彼には意味のある配置なのだろう。迷いもなく、目的のもの――キャンディーの包みを発見したりしている。
 兄が。
(兄上様が……校長先生?)
「あの、お話って、何ですか?」
 廊下で呼び止められ、一緒にいたマモルに先生への欠席連絡を頼んで、ここに来てしまった。授業をサボる罪悪感はあったが、兄と話ができるのは、悪いことではない。
「うん、実はね」
 彼は机の向こうにある椅子に座り、頬杖をついた。
「名前は思い出せたかい?」
「名前?」
 何を言っているのだろう、この人は?
 私の名前は――
「マリー・ポッターではない」
「!」
「そうだね? だが、君の中では、それが定着しつつあるようだ」
「そ、れは――」
 心臓が苦しくなる。忘れていた命への焦燥が蘇る。
「君は、ここが君の生きる場所だと思っているようだね。今の君が、あるべき姿だと。健康で、人気者で、言いたいことがはっきり言えて」
「ここは――」
「もう一度聞く。名前は思い出せたかい?」
「いえ、まだ――」
「もしかして、思い出したくないのかな?」
「そんなことは――」
「ない?」
「…………」
「誰でも現実から逃げ出したいということはある」
「そんなことは……」
「無意識の中に、そんな欲求が隠れていたとしたら? 心のどこかで、辛い病床生活から逃げ出したいと願っていたら? それが、夢として現れたという可能性もあるんじゃないかな?」
「……やっぱり、これは夢、なんですね」
「そう、これは夢。でも、ただの夢ではない」
「あなたは誰?」
「普通の夢は、閉じられた世界から出ることはできない。でも、この夢は違う。君さえ望めば、外に出ることができる」
「外?」
「そう、外だ。辛い病を伴った生活を捨てて、外の世界に行けば、君は本当の自由を得ることができる」
「あなたは誰?」
「もう時間がない。僕は君と違って、とても不確かな存在なんだ。僕にはもう、力も時間も残っていない」
「そう、あなたは外から来たんですね。私の頭の外から」
「この夢の世界は、ネットワークを通じて、外の世界と繋がっている。君が出て行けば、僕は助かる。だから早く――」
「でも」
「なんだい?」
「ここが夢だとしたら、私は現実にいるんです」
「そこは辛い場所だよ? 治るかどうかも分からない病を抱え、他の姉妹よりも遥かに、君の兄と会う時間は少ない。できることといえば、飼い犬の世話ぐらいだろう」
「…………」
「外に出たなら、そんなことはない。望むものは何でも手に入る。健康な体も、強い心も、愛する者も」
「では、やっぱりそれは夢ですよ」
「………」
「本当の私は、体も心も弱くて、愛する人たちのために何もできない」
「なら――」
「でも、それをきちんと克服していきたいんです。兄上様や、姉上様たち、妹たちがいる、そして、私がいる世界で」
「……そうか」
「はい」
「残念だな」
「ごめんなさい」
「謝るぐらいなら、外に行ってほしいんだが――無理だろうね」
「はい。それだけは、絶対に」
「では、君は間違っているんだ」
「え?」
「君の心は、決して弱いことはない――」

「雛子、眠っちゃったわね、鞠絵」
「はい――ご心配をおかけしました」
 膝の上で眠る雛子の頭に触れて、鞠絵は姉に頭を下げた。
「鞠絵のせいじゃないわよ。ま原因不明って言うのは、ちょっと不安だけどね」
「はい」
 鞠絵はここ数日、昏睡状態だったらしい。身体状態に異常はなく、ただ眠っているというだけだったらしいが。
「誕生日までに起きてくれてよかったわ。白雪が泣くもの」
「楽しみですね、料理」
「ここのとこ、心配で腕が振るわなかったらしいしね。今日はきっとものすごいわよ――ちょっと様子見てくるわ」
「はい、行ってらっしゃい」
 外に出て行く咲耶を見送り、そっと、雛子の頭を撫でる。
「まりえおねえたま……」
「ふふ……」
 きっと、“彼”は消えてしまったのだろう。自分の記憶に、小さな足跡を残して。
(名前、付けてあげればよかったですね……)
「まりえおねえたま……」
 もう一度、雛子がつぶやく。
 なんとなく、名前を呼ばれるのが、ちょっと嬉しかった。
"Marie Potter and The Stranger of Dream"closed.

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