夢のような関係
 一歩。
 一歩。
 一歩。
 そっと。
 あなたに。
 近付く。


PM 8:04

「もう、行っちゃうの?」
「だって、家に着いたじゃないか」
 そんなことは聞きたくない。
 そんな自分の気持ちを、知っているくせに、この人は、そんなことを言う。
「……あっと、いう間だったわね」
 視線が下がる。
 肺が絞られ、息苦しくなり、自然と胸に手を添える。
「そんな顔するなよ。きっとまた、明日会えるんだから」
 そんなことを、本気で思っているはずがないと、信じたい。
 雲ひとつない、夜空の下。
 彼女は白い吐息を吐いた。


「それじゃあな」
 別れの言葉に顔を上げる。
 どんなに苦しかろうが、これが最後なら、最後まで、見届けなければならない。
 時は止まらない。流れて、過ぎて、風化する。
「うん……また、明日ね、お兄様」
 自分ですら信じられないことを口にしている。
 感覚がない。
 それは寒さのせいか、あるいは――
「ああ」
 答えて、歩き出すその背中が。
 その笑顔が。
 悲しみなど欠片もない瞳が。
 憎しみさえ抱かせる。


「ふぅ……っ――くぅ……」
 涙は出てこない。
 ただ、言いたいことが言えない。それだけが、彼女の胸を閉ざしていた。
 たった一言。
 いくらでも言ってきたのに。
 今は、このときは、言えなくなっていた。
 その、たった一言を。
 好き、と。
 それだけを言いたいのに。
 会えないかもしれない明日なんて、いらない。
 この身をかけて、魂をかけて、願う。
 時をとめて、と。


 PM 1:14

 他に何もいらない。
 欲しいものは一つだけ。
 たった一つ。
 隣を歩く、あなたを見つめる。
「――ん? どうした?」
「ううん、なんでもないわ、お兄様」
 そう言って、その腕に自分の胸を押し付ける。
「お、おい……っ」
 このぬくもりを、笑顔を、優しさを、愛を、心を。
 他には、何もいらない。


 だけど、それを与えてくれるのは、あなたしかいないと思う。
 あなたでないとだめと思う。
 約束の日に、そばにいて欲しいと思うのは、それは――
 すべては、わがままに過ぎないのだろうか。


 AM 7:31

 誰も、いない。
 欲しいものが、手に入らない。
 こうして、朝日を受けても、喜べない。
 ここに、すぐ傍に、目覚めたときに、いてくれたなら。
 それ以上、何も望まない。


 PM 8:05

「……咲耶?」
 前を歩く兄に、そっと後ろから抱きつく。
 腰に手を回し、みぞおちの前で手を組むと、兄はうろたえた声を出した。
「お、おい、どうしたんだよ」
「いいじゃない。今日は、私の誕生日なんだし」
「いくらなんでも、ここじゃ……」
 人目もないのに、あたりを見回す兄に、くすりと笑う。
 ソンナコトハドウデモイイノニ。
 するり、と手を解いて、兄の前に移動する。

「―――――」

 一瞬の交錯。それは戦いにも似ている。
 意識せず、顔が火照ってゆく。
「さ、咲耶……」
「……………」
 じっと、顔を見つめる。困ったような、照れたような――その両方が綯い交ぜになった、愛しい顔。
 その手が、自分の肩に置かれる。
 目の前の、ついさっき触れた唇が、開いて――


 another day

「平気、大丈夫」
 ずっと、写真を見つめて、呪文を唱える。
 大丈夫。私は、お兄様に愛されている。
 世界で一番、お兄様が、大好き。
 お兄様も、私が好き。

 ――本当に?

「……だめ………そんな……お兄様……!」


 PM 8:06

「今日は、帰るよ」
 瞳が揺れるのが、暗闇でもわかったろう。
 目の前の顔が、狼狽する。
「………あ……」
 気付いたときには、もう遅い。
 ぼろぼろと、熱い水が頬を伝っていくのが、自分でもわかった。
 冷え切った皮膚を溶かす涙を、彼女はそのままにする。
「咲耶……」
 名前をつぶやき、兄は手袋をはめた右手の指で、涙を拭った。
 顔を横に振る。自慢の髪が、おおげさに揺れた。
 お兄様は、悪くない。
 悪くない。
 悪くない。
 悪くない。
 悪く――
「あのさ」
 ぽつり、と。
 聞き逃さなかった言葉に、顔を上げる。
 決まりが悪そうに頬をかいて、彼は言った。
「水曜、空いてる?」
「――え」
「その、さ。どうせだからさ、今日は、その、前哨戦っつーか、さ。で、本番は水曜って思ってたんだ」
 水曜。
 今日は土曜。
 4日後。
 今日から4日後は。
「空いてるかな、イブ」


 本当は、すぐに『うん』って言うつもりだった。
 ありがとう、お兄様って言って、頬にキスするくらいのことは出来るはずだった。
 だけど、ぼろぼろに涙が出て、目は真っ赤で、ひどい顔だった私は、ただ、首を縦に振ることしか出来なかった。
 喉に言葉が詰まって、嗚咽しか出てこなかった。
 だから、私は首をふった。何度も、何度も。
 涙が散って、どこかへ飛んでしまうように。
「仕方ないな、咲耶は」
 そんな、聞きなれた声が聞こえて。
 昔のように。
 私はお兄様の胸に飛び込んだ。
「………いつまで経っても、咲耶は、可愛いまんまだな」
 って、私の頭を撫でてくれた。
 その手が、何よりも温かくて。
 ずっとずっと触っていてもらいたくて。
 時をとめていたくて。
 私は、お兄様の胸の中で、ずっと、泣きながら頷き続けていた。

PART I "Thinking of you in this special day." closed.
To be continued PART II "Merry Very X'mas"