|
いっしょにいたい
「ふう……」 雨の降る外界を眺めて、白雪はそっとため息をついた。ただ、それは少し、気取りすぎていたのかもしれない。本当は、ため息の原因になるであろう疑いなど、本来は存在し得ないのだから。 だが、どうなのだろう? 本当に? 何が『本当に?』すら分からなかったが、結局もう一回ため息をつくことになった。 「にいさま……」 つまるところ、疑念の対象は、それを持つことなど許されない、兄へのものなのだから。 どうしても濡れる事を避けられない、今日のような外を歩くような面持ちで、彼女は疑念を捨てられないのだ。 この暗鬱として気持ちの始まりは、先週の金曜日だ。 街は、特に若者は、幾つかの部類に分かれていた。つまりは、受験生――これから受ける者と、受け終わった者、そして合格した者――、そして、バレンタインデーの関係者――渡す者、渡されることを期待する者、譲渡が確約した者、された者――、最後に、どちらとも関係ない者。 白雪は毎年のごとく、バレンタインの渡す者、に分類される。本当に渡したい相手も、遥か昔から決まっている。 「呼びました?」 数メートル前で、制服姿の女生徒が振り返る。いつの間にか、声に出してしまっていたらしい。ポニーテールよりも高い位置に結わえた黒髪を揺らす彼女に、デザインは違うが矢張り制服姿の白雪は首を振った。 「あ、違いますの。ごめんなさい」 「いいえ、構いませんわ。それでは」 そう言って彼女は会釈し、再び前を向き、白雪が佇む校門を後にした。幾度となく見たことのある顔だ。だが、あれは中等部の制服である。部活以外でカテゴリの違う白雪が出会うような存在ではない。何処となく、りりしい。 (にいさまも、ああいう女性はタイプかしら?) そういえば、聞いたことはない。目下、白雪の目標は『自分』を見てもらうことなのだし、その直接的方法は料理だ。今の彼女では、とても今の上級生のような凛々しさは出せないと思う。 だが、そんなことはどうでもいい。人はそれぞれ違う魅力を持っており、白雪が自分で把握している魅力は料理であり、少女の見た目の魅力が大和撫子のような凛々しさであるというだけだ。それに、 (姫はまだまだ、これからですのっ) 黒髪の先輩の胸部を思い出し、また自分のそれを見て、白雪は思った。 そして、校舎を見る。兄は…… 「あ、にいさまっ……?」 声が詰まる。同時に、兄も、『ヤバイ』という顔をする。 そして、兄の横にいた、同級生らしい女生徒――高等部の制服――が、笑みと核心を含んだ表情を見せた。 「し、白雪、来てたのか……」 「そうですけど……」 無礼かと思ったが、視線で、先輩を見る。彼女はくすりと笑って、 「例の妹さん?」 白雪のことを話しているようだ。 「あ、ああ……」 あからさまに狼狽した声の兄。 「 「あいつらと一緒にすんなよ、佐々木」 唇を尖らせる兄に、矢張りまた微笑み、女生徒は白雪に向き直った。 「はじめまして。 「は、はいですのっ。白雪ですの」 「その『ですの』っていうの、口癖?」 「おいっ」 兄が咎めるような声を上げる。いづみは肩をすくめ、 「別に変だなんて思ってないわよ。可愛いと思うわ、ねえ?」 「あ、ありがとうございますですの」 なんとなく、嬉しかった。この口癖は物心ついてからの口癖であったが、面と向かって『可愛い』と言われたことはない。『おそろいですの』と言われたことはあるが。 「で、せっかく迎えに来てくれたようだけど、どうするの?」 「あー……」 「にいさま……佐々木さんと、帰るんですの?」 口をつぐむ兄は、どうやら図星をつかれたらしい。 「………ええとだな、その、だな。俺の家にはいかな――」 「姫、一人で帰りますのっ」 少し、強めの口調で言って、白雪は小走りで駆け出した。 聞きたくなかった。 『俺の家にはいかな――』 その続きなど、いくら白雪でも想像できる。 だが。 いづみの家に行く、という言葉を、兄の口から聴きたくなかった。 その日は帰ってからずっと、何をしても上の空だった。土曜も同じく、翌日のお菓子教室の予習も、全くうまくいかなかった。 そして結局、上の空のままマダム・ピッコリのところへ行くことになった。母は、白雪の様子を見て、行かなくてもいいのではないかと言ったが、何かで気を紛らわしていないと――そう、それこそ得意のお菓子作りをしていないと、自分が消えてしまうような気がした。 丘の上のマダムの家に向かいながら、白雪は思った。 何もおかしなことではない。兄は十分に大人だし、贔屓目に見ても魅力的ではないとは言えない。いつだったか、兄の家に電話したときに、受話器の向こうから女の子の笑い声が聞こえた気がした。女の子の友達がいたとて、不思議は全くなく、そういったうちの一人を兄が好きになるか、或いは女の子のほうから兄を好きになることは、自然だ。白雪のものではない。兄は素敵だ。恋人がいるなんて、まったく、自然で―― そして、無意識のうちにノックした扉から出迎えてくれたマダムの胸に、白雪は涙を流しながら、抱きついてしまっていた。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます……」 アップルティーの香りが鼻にかかると同時に、口が勝手に言葉を吐いていた。 マダムは、どうしたの、とは聞かなかった。まるで、わかっていたように。 「……気の毒ですね」 「え?」 顔を上げる。マダムが、窓際で、こちらを見ていた。 「雨、ですって」 「?」 外は晴れていた。まったく、完全無欠に。 「マダム、あの……」 「今日じゃなくて、明後日です。白雪さんの、誕生日なのでしょう?」 「あ……」 そうだ。今日は九日。そして、明後日は誕生日だ。祝日で、学校はなく、一日暇だから、兄を誘って―― 「マダム、あのね……」 白雪はとつとつと語りだした。マダムは何も言わず、ただ首だけで相槌をうっていた。 「………終わりですの」 語り終えた。すっきりした気もしたが、矢張りしこりは残っている。マダムに話せば、何か解決策が見つかるとも思ったのだが。 と、チャイムが鳴った。マダムのお菓子教室は、かつてマダムが故郷にいたときに貯蓄した財産と遺産で暮らしているマダムの道楽のようなものであるから、授業料はほとんどない。そして、決まった時間というのもなく、気が向いたときに連絡すれば参加できるものだ。白雪は毎週日曜参加を決めていた。 そして、日曜参加の人間は、あまり多くない。その一人が、 「マダム、こんにちはーですのー!」 彼女、御影すばるである。 「こんにちは、すばるさん。お久しぶりですね」 少し派手な彼女の登場もいつものことなので、マダムは驚かずに応対した。 「お久しぶりですの。――あ、白雪ちゃんもいるですのね」 「すばるねえさま、お久しぶりですの」 「む!」 たたたっと駆け寄ってきて、すばるは白雪の目を見た。 「白雪ちゃん、目が赤いですの」 「あ、……」 「どうしたですの? まさか悪の怪人にお兄さんを取られてしまったんですの?」 ヒーロー物の漫画を私的に描いている彼女は、時々こういう突拍子もない発言をする。 「違いますの。その、ちょっとありまして……」 「じゃあ、何が? よかったら、この御影すばる、ご相談に乗りますの!」 どん、と、白雪以上はある胸をたたいて、すばるは言った。 「はー、そんなことがあったんですの」 「そうですの……姫、なんか変なんですの。心が、ぎゅうとなって……何をしても上の空になってしまうんですの」 「う〜ん」 うなるすばるとは対照的に、マダムは静かに微笑んだままだ。 「すばるさんも、去年ありましたね」 不意に、マダムが口を開いた。 「え? えーと」 「あ、確かにそうですの。すばるねえさま、確か去年の今頃……」 「あ! その話はなしですの! 封印ですの!」 慌てて席を立つすばるに、くすりとマダムは笑った。 「もしかしたら、白雪さんは、あのころのすばるさんの状態になっているのかもしれませんね」 「え……?」 「だーめーでーすーのー!……え?」 白雪と、床を転げまわっていたすばるが、同時にマダムを見る。 「大事なのは……私たちはいつも『創る』側にいるのだけれど、時には『与えられる』側でなければならない、ということでしょうか……」 その視線は、二人を越えて、一枚の写真を捉えていた。 「お、おー、ナデシカーン♪ 合体、合体、合体だー♪ お、おーう♪」 なんだかよく分からない歌を、母が歌っている。 「かあさま、なんですの? その歌は?」 「あらー、姫ちゃん。知らないのー? これは『ナデシカンDX』っていう超熱血ミステリアスアクションロボット活劇アニメーションの劇場版の主題歌よー。お、おーう♪」 母、恐るべし。 「ダメダメよー、姫ちゃん。せっかくのお誕生日なのに、そんな顔してたら。アメノウズメが踊りだすわー」 「……姫はブルーなんですの。かあさまは料理を作ってくれないし」 「ママがお料理ダメダメなのは知ってるじゃなーい」 「とうさまは朝からいないし」 「オウちゃんはちゃんと、お料理作ってるわよー」 「どこで?」 「レストラン?」 姫のためじゃないですの。 まあ、いくらなんでも、接客業を休日に休ませるほど愚かなことはないが、そればかりは毎年、恨んでいる。父よ、あなたの料理を、私は誕生日に食べたことがない気がする。 「でも、ちゃんと服はいいのを着ておいてねー」 「姫、今日は出かけたくないですの」 「ダメよー。それじゃあ沙真ちゃんがカワイソーよー?」 「……? なんて言いましたの?」 「カワイソーよー?」 「その前ですの!」 「ダメよー」 「……誰が、可哀想なんですの?」 「沙真ちゃんよ」 ソファから起き上がり、振り返る。 母は、優しげな笑みを浮かべて、言った。 「六時半までには、着替えておいてね」 目を見開く。 兄が、待っている? 「ぴんぽーん」 「かあさま、押してないですの」 「あらあら、おかしいわ。このチャイム、私の言うこと聞かないわ」 無言で白雪は、チャイムを押した。 ぱたぱたと、扉の向こうから足音が近づく。 「白雪、誕生日おめでとう」 「にいさま」 扉を開けたとたん、かぐわしい香りが鼻腔をくすぐった。 「にいさま?」 「とりあえず入れ」 扉を押さえて、兄は言った。 「あらあら沙真ちゃん、ママには挨拶なし? 寂しいわ。ママ寂しいわ」 「母さん久しぶり。では、どうぞ」 「あらあら沙真ちゃん、カッコいいわね。さすが女の子を連れ込んだだけあるわね」 ギクン、と白雪と兄の体が軋んだ。 そして、母の言葉を裏付けるように、 「尼居くん、私帰るわよー」 ひょっこりと、尼居家以外の人間が、リビングの扉から顔を出した。佐々木いづみだ。 「さ、佐々木……」 「あら、お母様?」 いづみと母は初対面らしい。 「こんばんは。尼入くんのクラスメートの、佐々木です」 「あらあらこんばんは。沙真ちゃんのママの、久美子です。クミちゃんって呼んでね。あなたの下のお名前は?」 「………いづみです」 「あらあら、可愛いお名前ね。いづみちゃんって呼ぶわ。ねえいづみちゃん、沙真ちゃんの、何処が気に入ったの? クミちゃんにだけ教えてくれない?」 「母さん!」 この場で母を止められる、唯一の人間が声を上げる。 「あらあら沙真ちゃん、そんな声出したら、ママ悲しいわ。ママのせい? それとも呪い?」 「いいから入って。上がって。……と、佐々木、本当に帰るのか? 迷惑かけたんだからさ、食ってけよ」 だが、佐々木は首を振って、靴を履いた。 「迷惑かけた相手は、妹さんでしょ?」 兄は少し、苦い顔をした。 「あらあらいづみちゃん、帰っちゃうの? クミちゃん寂しいわ」 「ええ。また今度」 そして彼女は、白雪の肩に手をかけた。 「言っておくけど、お兄さんはフリーだし、私は別の人が好きなの」 「……え?」 「だから、ちゃんと尼居くんのプレゼント、受け取ってあげなさい」 それで終わりだと言わんばかりに、いづみは雨が弱くなってきた夜に出て行った。 「あらあら沙真ちゃん。いつのまにこんなにおいしく料理が作れるようになったの? ママ、食べてばかりで申し訳ないわ」 「とか言いながら一番食ってるの誰だよ」 言いながらも、兄は嬉しそうだった。自分の料理を美味しいと言ってくれているのだから。 「どうだ、白雪。美味いか?」 「もちろんですの!」 鶏肉の入ったホワイトシチューは、少し焦げ味が入っているが、十分な出来だった。 そのほか、テーブルに載った料理は、母の言うとおり、おいしいものばかりである。 つまるところ兄は、料理の修行をしていたのだ。いつも料理やお菓子を作ってくれる白雪に、今日ばかりは自分が作ってやろうと。いづみはクラス一料理上手なので、指南役にと選んだ。それだけのことだ。 「父さんに習うとさ、バレるじゃん? 母さんは作れやしないし。佐々木だったら秘密厳守だからな」 相当に苦労したようで、手には絆創膏が幾つかある。だが、それだけの怪我ですみ、またわずか数日でこれだけの物が作れるのだったら、文句など出ない。 「だからさ、白雪。ごめんな」 「何がですの?」 「ほら、金曜にさ。一緒に帰っても良かったんだよ、お前と。でも、お前走ってったから」 「いいですの。姫も、ちゃんと聞かなかったから、おあいこですの」 微笑んで、白雪はまた一つ、フライドポテトを口にした。 マダムの言うことが分かった気がする。 創るだけでなく、与えられること。 兄に、与えられたのだ。 むろん、料理だけでなく、 「ラブも、ですの」 「ぶふっ」 白雪は、むせる兄の背中をさすった。 「あー!!」 「に、にいさま?」 「あらあら沙真ちゃん、どうしたの?」 「忘れてた……ケーキ」 "Where is your truth?"closed.
Back |