| 回想輪舞
気配より先に訪れた足音に、千影は警戒を顔に出さずに振り返った。もともと、彼女が真の感情を表に出すことなどほとんどないことだが。 肩越しに見た姿は、少なくとも外見は幼女のように見えた。 だが、そんなことは女の涙ほども信用できないことを、彼女は熟知していた。外見どおりの人間など、この世には存在しない。 幼女は踊りながら詠っていた。歌ってはいない。声に出さず、この世ならざるものを呼ぶ、魔性の言葉を口にしていた。 「やめろ」 声帯を使って警告を発するが、幼女はやめなかった。むしろ調子を良くしたように、周囲に漂う霧よりも、異界の匂いを濃くしてゆく。 千影は印を結んで、風を起こした。彼女の際限なき魔力を括られた命に従って、シルフは霧を晴らした。 濃密な異界の気配はそのままに、視界だけが晴れていく。塵芥のかぶった窓ガラスを吹き去るように、一瞬にして。 「――!!」 笑顔で詠う幼女の輪郭が映え、その顔を目の当たりにした瞬間、千影は目を見開いた。 かつての自分の顔を持つ幼女は、今の彼女でしかなし得ない笑みを浮かべ、彼女を嘲った。 「こんにちは」 肉声で、幼女は言った。 「君は……」 「わたしはあなた」 幼女は、いつのまにか手にしていたワンドをくるくると回した。異界の匂いがかき混ぜられる。慣れ親しんだ、現世に骨を埋めることの出来ない香り。 「……君は、私の記憶なのかな?」 「どうおもう?」 大人びた、というより、昔の千影には出来ず、今の千影なら出来る笑みを浮かべて問い返してくる幼女に、千影は首を振った。 「違うな――私の記憶はツベルクスピッツによって管理されている。――さて、私の記憶には、未来の私を見た記憶はないんだがね」 「となると、わたしはむかしのあなたというわけでもないのね」 ゆっくりと、菓子でも作るように空間を練りつづける幼女。 「どうでもいいの。わたしにはやりたいことがあるの」 千影は幼女に詰め寄った。 「やめたほうがいい。君のような者に御せるほど、甘くはないよ」 「わかってるわ。でも、それがわたしののぞみなの」 ほつれ始める異界との差に、千影は手をかざした。 「じゃましないで」 幼女は、ブランコを他人に取られた子供のように、ほおを膨らませた。 「そうはいかないよ。やりたいからする、と言うような覚悟で、開けてもらいたくはないからね」 「そう? でも、あなたはそれをのぞんでいるようだけど?」 「え?」 幼女はワンドをももの後ろに当て、そのままベンチにそうするように座った。 「あなたののぞんだことよ?」 「馬鹿を言わないでくれ。むこうがどんなものかどうかぐらい、知っている私が――」 「しらなかったとしたら、どうしたかしら?」 幼女は短剣と杯を手にし、短剣をタクトのように振った。 「何を――」 「あなたののぞみよ。だから、わたしののぞみなの」 短剣の先が『壁』の薄皮を傷つける。 千影は、それを止めることが出来なかった。 「ずっと、ずっとむかしのはなし。いまでもつづく、ながいおはなし」 杯の縁から、灰色の水が流れ始めた。 「わたしはのぞんでいた。あのひととともにいられることを」 涙が流れる。千影と、幼女の瞳から。 「でも、それはかなわない。わたしたちがいるせかいは、そういうせかいだから。 わたしたちのきずなは、そういうものだから。 そのきずなゆえに、わたしはあのひとをもとめるのに、そのきずながわたしとあのひとをさくの。 どうにもならないの。ここでは、どうにもならないの。 だったら――」 幼女は流れる涙を解せずに、千影を見た。 「なにをためらうことがあるの?」 「私は――」 「それをのぞむの。それがいちばんなの。ぜったいなんだよ? だったら、なぜそれをしないの? わたしはまったわ。ずっと、ずっと。 わたしたちは、まっているの。いつかかなうことを」 待っているのだ。ずっと。ずっと。 夢に見て、想い、告げ、笑われても。 それを焦がれてるのだ。 「――あのひとも、それをのぞんでいるの」 「そう――だね」 何を躊躇することがある? 希望は『そこ』にある。 だから―― 千影は短剣を奪い取り、壁に思いきり突き立てた。 ――いや、本に。 「――え?」 「だめだよ」 その本は、少女の手がつかんでいた。 その少女は、幼女よりは年かさの、幼い千影の顔を持っていた。 「だめだよ。あのひとは、そんなことはのぞんでいない」 「いいえ!」 幼女が叫ぶ。 「のぞんでいる! ずっと、えいごうに、ともにみちをすすむと! わたしたちとともにいきると!!」 「ううん。ちがうよ。あのひとは――」 少女は本を、幼女に差し出した。短剣を抜き取り、ページを繰る。 「わたしたちのうまれたせかいで、しゅくふくされながら、ともにいきようって、そういってくれたんだよ」 幼女の顔が歪む。それは、人間の顔ではなかった。 感情の飽和を超えた、複数の感情が詰まった顔だった。 「“あわ”は“あわ”らしく、きえなさい」 ぱたん、と本が閉じられ―― 幼女の姿は短剣と杯とワンドを残して、消え去った。 千影は呆然としたまま、少女の動向を見ていた。 少女は短剣と杯とワンドを開いた本の上に乗せ、そのまま閉じてしまった。まるで、何も余計なものがないように、本は綺麗に閉じられる。 「さて――」 少女は本を閉じて、千影に差し出してきた。 「もう、なくさないでね」 「これは――私の記憶か」 「そうよ。ツベルクスピッツが、ねていたあいだにおとしたらしいわ。かれも、まがぬけているわね」 くすっと少女が笑う。 「あれは――なんだったんだ?」 「きおくよ。でも、あなたのきおくじゃないの」 「どういうことだい?」 「あれは、ぜんせのきおく。あなたのまえのあなた、といえばいいかしら?」 どうも理解力が落ちているらしい。よくわからなかった。 「あなた、きおくというのも、たましいというのがなにかわかる?」 「簡単には答えづらいな……」 「たましいとはね、“あわ”なの」 「泡?」 「さかずきにはいったみずがあってね。それに“あわ”ができるということが、うまれる、ということなの。 あのこは、あなたという“あわ”のまえに、あなたの“あわ”のあるさかずきにあった“あわ”たちなのよ。 つまりは、おなじさかずきからうまれた“あわ”。 “あわ”がきえて、あらたな“あわ”ができることが、“てんせい”するということ」 「……たち?」 「そう。ひとりじゃないの。 わたしたちは、ずっと、ずっとおなじことをくりかえしているのよ。あのひととむすばれるためにね」 少女は舞うように歩きながら語る。 「わたしたちは、いくどとなく、あのひととともにいきていけるところをさがしたの。 でも、いつもぜつぼうがさいごにあった。 あのひととわたしがいきていけるばしょは、どのわたしがいったところにも、そんざいしなかった。 そしてね」 少女は立ち止まり、千影を指差した。 「あなたよ」 「私?」 「あなたはおもったはずよ。ずっと、ずっとむかしに。 よみがえった“あわ”たちのきおくから、このよにはきぼうがないことをしり、『そのかんがえ』にいたった。 “ここ”でないところでなら、だいじょうぶだと」 「ここでない所とは――」 「“いかい”ね。でも、それをかんがえついたおさないあなたは、それをじっこうできなかった。 そして、じっこうできるいまとなっては、それがきけんだとしってしまった。 だから、わたしたちは、あらゆるばしょで、かなうことができないと『ぜつぼう』したのよ」 そうだ。昔、前世の記憶が戻った時に、それを考えた。 だが、その時にそれを行う技量はなく、出来るようになった時点で、それが危険だと封印したのだ。 「ゆめのかなうばしょがない。それはぜつぼう。 “あわ”たち――ぜんせ、そのまえのぜんせ……のわたしたちはあせったの。 ううん、なんていうのか――とだえた、っておもったのかな。 あなたは、あの“あわ”とはべつのそんざいだけれど、おなじそんざい。 そのあなたが『あきらめた』っていうのは、“あわ”たちにとってさいあくのじたい」 「だから――」 「そう。ツベルクスピッツのミスにじょうじて、あなたのなかにあらわれて、あなたに“いかい”へのとびらをひらかせようとしたの。 べつだん、わたしたちにとってはきけんではないもの。 ただ、このよがまぼろしときえてしまうから、このほうほうはきけんなの」 「だが、それは兄くんの望むところではないしね」 「そうなの。あのひとは、いつも、なんどでもわたしたちにいっていたのに。わたしたちはわすれてしまったのかしら」 「彼女らは?」 「あなたのきおくがあなたからけつらくしたすきをねらってそんざいしていたから、あなたのきおくがもどったいまでは、もうきおくのそらにまぎれてしまったわ」 「そうかい……」 そっと本の表紙を撫でる。タイトルもなく、短剣傷も消えている。 「じゃあ、君は何だったんだ?」 「わたし?」 少女は悪戯っぽく笑った。 「わたしは、あなたのかこ。そしてみらい。あなたというあわのかけらの、もっともあつくてうすいばしょ」 「つまり?」 「あなたのしっぱいを、『いいかげんにしなさい。あなたはなにをまなんだの?』って、しかるやくよ」 そういって少女は、霞みと消えてしまった。 「……やれやれ。手厳しい……」 そういって千影は、そっと苦笑した。 「千影!」 「やあ、兄くん……」 小走りで駆け寄ってくる兄に、千影は薄く笑った。 公園へと続く道を歩きながら、千影は兄に聞いた。 「兄くん」 「ん?」 「もし……世界が終わるとしたら、どうする?」 「お、終わる?」 「そう、終わるんだ。絶望して、この世にいたくなくなる――そんな終わりさ」 「えー、そうだなー……」 目を閉じ、額に手を当てながら、兄は言った。 「やり直す、かな」 「やり直す?」 「えっと、千影が言ってるのは、隕石が落ちてこの世がなくなる、とかじゃなくて、『もう終わりだー!』って思うことだろ?」 「ああ……」 「だったら、自殺しない限りは、僕らはこの世に生きてるじゃないか。だったら、この世界で生きていくしかない」 「この世に、絶望したのに?」 「でも、世界ってのは変わるもんだよ。千年前と、ぜんぜん違う。だったら、今は絶望しか感じられなくても、“なんとかなる”ときまで、やり直すさ」 「………」 「それにさ」 「ん?」 「千影がいるんだから、こんな世界も捨てたもんじゃないさ」 『わすれてしまったのかしら』 「いや、思い出したよ」 「え?」 「――何でもないよ。変わらない兄くん」 陽光が差しつつある道端で、相変わらずの兄に、千影は微笑んだ。 "The Memories Book"closed.
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