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奇跡の日
扉を開けた瞬間、皮膚を弛緩させる風が鼻先を撫でていった。 「寒……」 つぶやき、赤いマフラーを口元まで寄せる。 向かいの庭に目をやる。二メートルほどの庭木にオーナメントとイルミネーションが飾られており、頂点には銀色の星が輝いていた。斜向かいの家も、隣もどこも、何かしらの飾り付けがされている。 斯く言う自分の家の玄関にも、柊と姫りんごと鈴が絡み合ったリースが飾られていたりする。 街――いや、世界中が落ち着かなくなっている。すべてのヒトが星空に願いをかけ、愛を語らっている。 窓という窓に灯がともり、奇跡を待ち望んでいた。 「行きますか」 ぱちん、と指を鳴らし景気をつけて、咲耶は聖夜の街へと進みだした。 中心街近くまで来ると、さすがに周囲がざわついてくる。数メートル進むごとに人ごみの密度が増していき、クリスマスソングが耳を打つようになる。 浮かれた世界の中で、咲耶は自分の心が期待と歓喜で満ち溢れていることを自覚した。何も怖いものなどない。不安の影は鳴りを潜め、一歩一歩近付く目的地へと逸る気持ちは、弾けるほど高まっていた。 実のところ、自分の心変わりというか、四日前の自分と今の自分のあまりの違いに驚かないでもない。あの日の自分を占めていた、肺を絞るような苦しみは、あっという間に消え去ってしまったのだから。 兄の、優しい抱擁で。 とんでもなく泣いた。恥も外聞もなく、数年分の涙を出しつくしたような気分だった。 兄の前で泣いたのは何年ぶりだろう。いつの日からか、兄の前で泣くことは少なくなった。それに反して、一人で泣くことが多くなった。無力さと絶望に、何百回と枕を、袖を、手を、頬を濡らした。 兄はそれを、いとも簡単に止めてしまう。王のように、神のように。兄のために流した涙を、兄だけが止めてしまえるというのは――本当に皮肉だった。 「あ!」 「きゃっ」 その衝撃を受けたのは、まさしく不意にだった。 待ち合わせ場所へ向かう道の途中、角を曲がろうとした瞬間、左肩に何かがぶつかってきた。 たたらを踏み、バランスを取る。まず覚えたのは疑問で、ぶつかられたことへの怒りは全くなかったといえる。 「ご、ごめんなさい!」 高い声から、若い女性だとわかる。顔を上げて相手を見ると、女子高生ぐらいの黒髪の少女が、こちらに頭を下げていた。 「いいわよ。気にしないで」 そういうと、少女は再び頭を下げてから、広場のほうへと足を向けた。 瞬間、理解した。 (この子も……) そう思った瞬間、少女に声をかけていた。 「がんばって!」 それが聞こえたのだろう、少女は「はい!」と答えて、走っていった。 立ち止まったまま見送って、後ろ姿が人ごみに消えてから、再び歩き出す。 「私も、急ごうかな」 さっきよりも歩調を速め、同じベクトルの通行人を追い越していく。 (私だって、負けていられない……!) 妙な対抗心を胸に、咲耶は広場に向かっていった。 十メートルも行っただろうか、昨夜の横を通り過ぎていく人影があった。 それはサンタクロースだった。赤い帽子に赤い服、そして白い袋。身長は二メートルに届くだろうか。ちらと見えた顔は、髭のせいかもしれないが、老人に見えた。 そのサンタクロースは携帯電話を耳に当て、ブツブツ言いながら小走りで走っていった。 「ミッション・イントゥ・アイズは変更なし。私は少し遅れる。気にするな。予定通り、お嬢様がつき次第……」 良く分からないことをつぶやきながら去っていくサンタを見送り、咲耶はぽつりと言った。 「……何あれ」 広場に着くと、そこは既に人という人に埋め尽くされていた。 ちらほらと家族連れもいたが、ほとんどが若いカップルだ。先ほどぶつかった少女も、連れらしき人間と一緒にいた。 しかし、 「お兄様……」 昨夜の待ち人はいなかった。確かに、ツリーの前、噴水の鳥の像の前で待ち合わせたのに。 「…………」 心臓が鼓動を速める。これは期待ではない――紛れもなく、不安だった。 自分以外の人間には 急に、自分が迷子になってしまったような気分になり、咲耶はそっと瞳を閉じた。次の瞬間、目を開いたら、目の前に兄が現れていることを願って。 だが、咲耶の瞳を開いたのは、別のものだった。 どこからかクリスマスソングが流れてくる。 それとともに生まれたざわめきが、咲耶を起こした。 「――雪だ――」 雪? この晴れた日に? その疑念がまぶたを押し開けた。次の瞬間、頬に冷たい欠片が舞い降りた。 「………わぁ」 それは何なのか。雲など全くない星空に、白い結晶が舞っている。 それを言い表す言葉は一つしかない。 かつて、迷子になった自分を、彼が探し出してくれたことも、そう呼ぶ。 その名は―― 「奇跡だ……」 「お兄様……?」 イルミネーションに照らされた幾千粒の雪の向こうから現れた兄に、咲耶は有無を言わさず抱きついた。 「お兄様……もうっ、遅い!」 「ご、ごめん……」 謝りながら遅れた理由を口にしてくるが、咲耶は無視して兄を見つめた。 困り顔――その頬が、耳が、真っ赤になっている。 そっと、その頬に手を伸ばす。 「冷たい……」 「ああ……ずっと走ってきたから……ごめんな、遅れて」 「ううん、いいの」 ゆっくり首をふる。 もう、そんなことは、どうでもよかった。 今、自分の心には、ついさっきまであった不安がなくなっていた。 代わりに、歓喜や安堵、幸福といった、まるでキャンドルライトのように様々な色の暖かさがともっているのが感じられた。 それだけが、今、確かにあって―― 「お兄様、寒くない?」 「うん……そりゃあ、雪も降ってるし」 「それじゃ、私のマフラー、貸してあげるわね」 しゅるり、と首からマフラーを抜いて、兄の首にかける。 そして、マフラーを使って兄の顔を引き寄せ、顔を近づけて―― 冷たく、暖かな味。 「……メリークリスマス、お兄様」 PART II "Merry Very X'mas"closed.
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